『千日の瑠璃』220日目——私は善意だ。(丸山健二小説連載)

 

私は善意だ。

齢を重ねるにつれて悪知恵を身につけた老婆が、外出のたびにあてにする他人の善意だ。彼女はクルマを発進させようとしている者をつかまえては、如何にも哀れっぽい声を振り絞ってこう言う。家はすぐそこなのだが、急に脚が痛み出して、と。その手はいつもうまくゆき、彼女は好きなときに私を呼びつけ、バス代もタクシー代も払わないでまほろ町のどこへでも行くことができる。もっとも大半の運転者はそうした手口を承知のうえで彼女を乗せてやっているのだ。

きょう彼女の前に、彼女が前々から目をつけていた白塗りの外車が遂に停まった。しかし、彼女はそれを乗り回す相手が何者なのかまったく知らなかった。三階建ての黒いビルに巣くう長身の青年は、「いいよ、乗んなよ」とそう言って、扉を聞けてやった。だが、ろくでもない騙しのことなら、青年のほうが一枚も二枚も上手だった。

老婆は自分の家が近づいてくると、「すみませんねえ、助かりました」と言った。しかし青年は素知らぬふりをしてそこを通り過ぎ、大騒ぎを始めた年寄りを無視してどんどん先へ進み、うたかた湖の北の外れまで行き、気任せに歩いている青尽くめの少年を見つけるとようやく停めた。そして彼は、私といっしょに老婆を外へ放り出し、「少しは歩いたほうが体のためにいいぞ」と言い、少年には「おまえは少し歩き過ぎだな」と言って走り去った。
(5・8・月)

丸山健二×ガジェット通信

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