『千日の瑠璃』219日目——私は身の上話だ。(丸山健二小説連載)
私は身の上話だ。
ストーブ作りの男が沖へ向ってボー卜を漕ぎ出しながら、世一の姉に語って聞かせる身の上話だ。私の半分は真っ赤な嘘で、あとの半分にしても真実そのものとは言い難い。彼は、ふしだらで無知な妻に愛想尽かしをしたのだと言い、それから、勝手向きがよくないことをひた隠しに隠しながら、あなたを知って溶接の火花のなかに新しい光が見えてきたように思えてならないなどと語る。
彼は嘘と嘘に近い話の合間に、肝要なのは一にも二にも愛だということを口巧者に説いてみせる。そうした類いの言葉をじかに聞きたくてこれまで生きてきたともいえる女は、掌をうたかた湖の湧水に浸して、いやがうえにも高まる恋慕の情を抑えている。そんな女の眼の前で私が、劣弱な質で、小利口で、不逞の輩を、気骨ある放胆な性格の男に造り変えるのは容易なことだ。女は男の思わせ振りな態度に感心し、いちいち頷く。
けれども女は、自分のことについては何も語らない。年齢についても、これまで一度も男に言い寄られなかったことについても、弟を蝕んでいるろくでもない病気についても、一切触れない。彼女は、ボートの縁を叩く波の音や、湖面を渡ってゆく風の音のようにして私に聞き惚れ、その眼ざしは去年無二の親友が首を吊った林のあたりに注がれている。
男は遂に言う。まほろ町の男にはまほろ町の女が一番似合うような気がしてならない、と。
(5・7・日)
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