『千日の瑠璃』218日目——私は屋根だ。(丸山健二小説連載)

 

私は屋根だ。

人口の流出を少しでも減らそうと、もう何年か前に建てられた町営住宅、そのトタン張りの屋根だ。私の色はまだ住人の心ほどには褪せておらず、天から降ってくるさまざまな有害物質をきちんと防いでいる。しかし私の役目の重大さを心にとめている者などひとりもおらず、それどころか、誰もが私の存在そのものを忘れてしまっている。

きょう、テレビのアンテナの向きを直しにきた男が、改めて私に気づいた。ここからの眺めに新鮮な驚きを得た彼は、かれこれ二時間余りも私の上に居つづけたのだ。彼はまほろ町を囲む山稜の線の美しさに深く感動し、煌く高層の気流の複雑怪奇な動きを見て取った。ついで彼は、累日を無為に過してきたことに今更ながら気づき、ぎくしゃくしがちな人間関係やちまちました日々にうんざりし、もはや新生活など絶対にあり得ないことを思い知り、目腐れ金で縁を切った前妻の寂しい笑顔や、夭折した知友の身に染みる親切を思い起こして、不覚の涙をこぼした。

どうやっても申し開きが立たない彼は、私の上に寝そべり、枚挙にいとまがない失敗と後悔に挟まれて、いくら考えても詮ないことを熟思した。それから彼は、業病と思って諦めるしかない立場にいる少年が向うの道を通って行くのを見て、幸福とは満足の謂にほかならないことを悟り、そろそろと梯子を降りて、ふたたび私の下での暮らしへと戻って行った。
(5・6・土)

丸山健二×ガジェット通信

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