『千日の瑠璃』217日目——私は浴槽だ。(丸山健二小説連載)
私は浴槽だ。
長年酷使されたせいですっかりひびだらけになってしまった、琺瑯の浴槽だ。入浴の順番は特に決まっていない。娘が先のこともあれば、父親のことも、また母親のこともある。しかし、最後に入るのはいつでも世一だ。理由は体の汚れが一番酷いからで、入れ替えたばかりの水が一度で真っ黒になることだって少しも珍しくはない。それに世一はしばしば私を便所と間違える。
だが、今夜の世一は湯をどろどろにしたり、糞をぷかぷか浮かべたりはしない。だからといって、おとなしくしているわけではない。世一は鳥の水浴びを真似る。私の縁に苦労してしゃがみこむと、「チッ、チッ、チッ」という声を発し、首を深々と折り曲げて湯を口に含み、上体をぐっと反らせてその湯を飲み下したかと思うと、そのまま飛びこむ。そして私のなかで両腕を翼のようにしてばたつかせ、骨と皮だけで成り立っているとしか思えぬ貧弱な体を、ぶるぶるっと震わせる。
ふたたび私の縁にとまった世一は、更に全身を揺すってしずくを切り、「チッ、チッ、チッ」と鳴き、またもや私のなかへ身を投げる。そんなことを幾度か繰り返しているうちに世一は飛べる自信がつき、ところがそのときには湯あたりしており、ぐでんぐでんに酔っ払った父親のようにばったりと倒れ、タイル張りの床の上に長々と伸びる。底を蹴破られずにすんだ私は、安堵の胸を撫でおろす。
(5・5・金)
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