『千日の瑠璃』216日目——私は荒天だ。(丸山健二小説連載)

 

私は荒天だ。

用意万端調った爛漫たる春をかき乱してやろうと、存分に暴れ回る荒天だ。私がはるばる大陸から運んできた並の低気圧は、まほろ町へ達してうつせみ山にぶつかった途端、異常な発達を遂げた。私は、ソメイヨシノの色に染まっていた穏やかな天気を灰一色に塗り潰し、細くて鋭い雨をさかんに降らせ、うたかた湖の水に動揺を与える。それから私は、どこかから聞える読経を吹き飛ばし、どこかから届くオオルリのさえずりを引きちぎり、急ごしらえの小屋をばらばらにしてやる。

しばらくして湖岸に人だかりができ、パトカーと救急車が駆けつける。人々の視線は、沖に漂うひとりの人間の運命に注がれている。私のせいで救助の船を出すことはほとんど不可能だ。「何とかしてやれ!」という声が飛ぶ。だが、荒波にもまれているのは私の犠牲者ではなく、私への挑戦者だ。ほどなく人々は鮮やかな抜き手に感嘆し、ついで、それが女であることを知ってもっと仰天する。

しかし、本当の驚きは、彼女が別荘で独り暮らしをしているあの狂女だとわかったことだろう。無事に岸まで泳ぎ着いた彼女は、大波との格闘でよじれた水着を直し、沖を振り返って、私に不敵な笑みを投げる。警官はただただ呆れ返るばかりで、注意を与えることもできない。彼女は、波よりも大げさに体を揺らして見物していた少年の頭をひと撫ですると、すたすたと歩いて松林のなかへ姿を消す。
(5・4 ・木)

丸山健二×ガジェット通信

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