『千日の瑠璃』207日目——私はエプロンだ。(丸山健二小説連載)
私はエプロンだ。
母親の立場にようやく馴れてきた女の、急速に崩れつつある体型を巧みに隠す、ゆったりと作られたエプロンだ。あまり清潔とはいえない私を両手でしっかりとつかみ、ハンカチ代りにして溢れる涙をこすりつけているのは、幼い双子の兄弟だ。母親はわが子の背中を優しくさすってやりながら、「何でもないわよ」をさかんに繰り返す。その「何でもないわよ」は、難病に冒された少年に対する精一杯の詫びの印でもある。
生まれて初めてそうした人間を見てしまった双子は、たじろぎ、怯え、それから何とも形容し難い複雑な気持ちを、つまり、この世に在ることの悲しみを体験したのだ。私は声を潤ませる兄弟の温かい涙を次々に吸い取り、そんな事情も知らずに嬉々として近づいてくる少年から守ってやる。母親は少年に幾度も言う。「この子たちはあんたのことで泣いたんじゃないからね」と。そう言いながらも彼女の眼は、疫病神を追い払いたがって拒絶の光をひっきりなしに放っている。
しかし、少年には通じない。同じ顔形の人間がふたり揃っていることが珍しくてならず、彼は母と子のまわりをぐるぐると回る。少年はまた、兄弟を庇護する私にも興味を持ったらしく、双子を乱暴に押しのけ、いきなり顔を近づけてくると私を使って鼻をかむ。母親は緑がかった鼻汁を見て悲鳴をあげ、兄弟は恐怖のあまり泣くのを忘れて、自失の体だ。
(4・25・火)
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