『千日の瑠璃』190日目——私は蟻だ。(丸山健二小説連載)

 

私は蟻だ。

どこでどう道を間違えたのか、いつの間にか貸しボート屋のおやじの禿げ頭によじ登ってしまった蟻だ。けれども私はうろたえたりしなかった。こうした場合、へたに動かないほうがいいことをよく知っていたからだ。今時の若い者だったらおそらくこれほど落着いてはいられず、一撃のもとに叩き潰されていただろう。こう見えても私は世間師だった。

さいわいなことに、おやじは眠っていた。白鳥が帰ってすることがなくなった彼は、日がな一日湖畔のベンチに坐って、うつらうつらしていた。長いこと激務に堪えてきた私は彼に倣うことにした。少しは休むべきだと思った。滑り易い頭皮を通して、慌てず騒がず過した彼の数十年が私に伝わってきた。病弱のために生死の境を幾度となく彷徨し、神前にひれ伏すしかすべのなかった彼ではあったが、しかしそれにしては厭世の脳波がほとんど感じられなかった。現在の彼には気迷いが生ずることはなく、人の世を頻りに訝ることも、憂き身を託つことも、不快な相手を口を極めて罵ることも、己れの孤独の深さに気づいて顔色を失うこともなかった。

私は彼の頭のてっぺんから遠く沖を見晴らし、風にそよいで光る柳の若葉にうっとりと見とれた。湖面では数珠繋ぎにされたボートがうねりに合せて揺れていた。そして地面では、あくせく働く私の仲間が、真っすぐに歩けない少年によって次々に踏み殺されていた。
(4・8・土)

丸山健二×ガジェット通信

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