『千日の瑠璃』177日目——私は里心だ。(丸山健二小説連載)
私は里心だ。
湖畔の別荘地で静かに余生を送ろうとする老夫婦を荒々しく振り回す、いつもながらの里心だ。元大学教授はきょう、便所の小窓から、早瀬に押し流されて溺れかけている者のようにして歩く少年の後ろ姿を見た。ただそれだけのことなのに、彼は「こう見えても学者の端くれだぞ!」とだしぬけに叫んだ。ほとんど同時に、水仙を盛り花で活けていた彼の妻が、鋏を放り出して、こう言った。「もうやめましょう、こんな生活」
かくしてまた私の登場となった。ふたりは口々にまほろ町を罵った。ここには文化の香りがない。山の冷気は汚染された空気よりも老化を早める。ろくな商品がない。静寂も度が過ぎると有害だ。雪かきが煩わしい。どれも、ふたりが敢えて極力避けてきた話題ばかりだ。それから夫婦は、殷賑を極める都市での暮らしを真剣に検討した。そして、自分たちの住むところがもはやここにしかないことを悟るまでに随分と手間取り、およそ半日を潰してしまった。
晩方になってぐんと冷えこむとふたりは、かつて厳格な家庭を築いていた者とは思えない、不安で、陰鬱な顔をし、簡単に食事をすませた。まだ私にしがみついている妻は、娘の家で暮らそうと言い出した。「ここを売り払ったお金を見せればそんなにわるい顔はしないわよ」と言った。すると夫は「もうたいがいにしないか」と言って、私を叩き出した。
(3・26・日)
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