『千日の瑠璃』172日目——私は大波だ。(丸山健二小説連載)
私は大波だ。
うたかた湖では十年に一度起きるかどうかもわからない、およそ現実から懸け離れた大波だ。私を造った主因は春を予告する強風に違いないが、しかしあながちそのせいばかりとはいえない。突風が湖面を揺さぶると同時に、何か途轍もない力が、さながら火山を突きあげるマグマのような勢いで、湖底から湧き出してきたのだ。それは地震の力でもなければ、人間の運命を弄んで楽しむ者の存在を具現化した力でもない。
もしかすると、次なる混乱の時代の前兆の力かもしれず、あるいは、迫りくる死を察知したうたかた湖の胴震いかもしれない。急激に盛りあがった私は、周囲の山々を突き崩しそうな勢いで岸へと向う。ボートのひとつやふたつくらいはひっくり返してやれるだろう。ところが私は岸へ近づくにつれて衰えてしまい、砕け散る波頭も思ったほどではなく、まだ居残っている白鳥を慌てふためかせることも、古い桟橋を打ち壊すことも、多年の宿弊を一掃することも、合目的的な仮定による推論をやっつけることも、知何なる時代でも趨勢に従ってしまう人々を仰天させることも、ときとして虫けら同然の仕打ちを受ける少年世一をひと思いにさらうこともできない。
普通の波となって沖へ引いてゆく私についてきてくれるのは、丘のてっぺんから発せられる、美し過ぎて却って空しく響くオオルリのさえずりと、どうでもいい死者のため息。
(3・21・火)
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