『千日の瑠璃』167日目——私は嗚咽だ。(丸山健二小説連載)

 

私は嗚咽だ。

きのう交通刑務所を出所し、一年半ぶりに郷里へ帰ることができた女が洩らす嗚咽だ。私の半分はクルマを運転する彼女の夫が受けとめ、あとの半分はまだ夜の底に横たわっているまほろ町が引き受けてくれる。女は辛かった起き伏しについてはひと言も触れず、また彼女の夫もそれについてたずねたりしない。予定では一泊するつもりだったのだ。しかし彼女は、昼間に帰って近所の連中に顔を見られたくない、と言った。胸中を察した夫は、自分たちにはさいわいにして子どもがいないから、どこか遠くの、知っている者がひとりもいない町へ引っ越そうか、と言った。

だが彼女は、まほろ町へ帰りたがった。安心して暮らせる土地はほかにない、と言った。ふたりは飲まず食わずでひと晩中走りつづけた。そして、うたかた湖が見え、家まであと数キロと迫ったとき、彼女は最初の涙を流した。私は彼女の緊張を和らげ、もうすんだことだと諭し、彼女の夫をほっとさせた。夫は内心、妻が別人のように変って、これまでふたりで築きあげ、積み重ねてきたすべてを放り出してしまうような、そんな女になって帰ってくるのではないかと心配していたのだ。

ヘッドライトが突然路上に飛び出してきた少年を照らし出す。急ブレーキの音が彼女を逮捕されたあの夜へといっぺんに引き戻してしまう。クルマの外へ放り出された私は、病気に支配された少年の傍らに佇んでいる。
(3・16・木)

丸山健二×ガジェット通信

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