『千日の瑠璃』162日目——私は焦燥だ。(丸山健二小説連載)

 

私は焦燥だ。

またしても世一の姉を苦しめ、彼女をあられもない振る舞いに駆り立てている焦燥だ。覆る寸前の小舟のように不安定な彼女は、私の意のままに操られている。彼女は、相変らず誰もいない図書館で、四時間もかけて冗長な手紙を書いた。そして、どう書いたところで見え透いてしまう作意が気になり、相手の気持ちを引きつけられないことがはっきりすると、持参した弁当をがつがつと食べ、食べながら、ときおり突拍子もない声を張りあげて、まほろ町の歌を歌った。

それから彼女は、坐っている椅子を独楽のようにぐるぐると回転させた。顔が窓の方へ向くたびに彼女はうたかた湖に忍び寄る春を知り、知るたびに私に振り回された。私が招いた収拾のつかない混乱のせいで、遂に彼女は眼を回し、ひっくり返った。芝居染みた倒れ方をするつもりが失敗してしまい、背中を机の角にいやというほどぶつけ、しばらく息ができず、その直後に始まった激痛に堪えかねて、床の上をごろごろところげ回った。

今や沖天の勢いの私に敵する者はなく、惨めな己れを移ろう花の色に準えてまだ逃げようとする、恋愛小説を教典にしてまだ取り繕おうとする女を、好きなだけ痛めつけることができた。私は彼女に本当のことを言ってやった。「これまでおまえに興味を示した男がひとりでもいるか?」と訊き、「これからだって絶対に現われないからな」と言った。
(3・11・土)

丸山健二×ガジェット通信

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