『千日の瑠璃』150日目——私は幻だ。(丸山健二小説連載)
私は幻だ。
大宇宙を遍く覆う暗黒物質の電気的なちょっとした狂いのせいで、時間のずれや空間のひずみのなかから飛び出した、幻だ。今夜私は、氷が半分ほど融けたうたかた湖の真上に出現した。おそろしく高い、近くの片丘に届くほど高い三本の針葉樹と、その下に佇む馬を連れた旅人を、霧を使って描き出した。夜は遅く、冷えこみも一段と厳しかったが、それでも目撃者は何人かいた。
しかし、どういうわけか誰も私をありのままに受け入れようとしなかった。かつて大陸の真ん中で夜毎怪異に悩まされたことがある年寄りですら、私を認めなかった。また、日に一度は白鳥の様子を見にくる文弱の徒も、いよいよ頭がおかしくなり始めたのかと呟いて、さっさと帰って行った。そして、冬のあいだ水鳥の世話に明け暮れる貸しボート屋のおやじは、せっかくの喫驚を、翳んだ眼のせいにして片づけてしまった。丘の上の家へ千鳥足で向う役場の職員はというと、酒の呑み過ぎのせいにした。それでも彼は、樹下の巨大な私に手を振り、客地で永眠するかもしれね旅人の立場を羨んだ。
街道を法定速度を無視して走る長距離貨物トラックの運転手たちは、私のことを新手の広告くらいにしか考えず、そのまま走り去った。なかには私をまともに見てくれる者もいたが、その男は「それがどうした」のひと言ですませ、根気よく密猟の機会を窺った。
(2・27・月)
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