『千日の瑠璃』136日目——私はハモニカだ。(丸山健二小説連載)
私はハモニカだ。
何もすることがない冬をやり過し、気が滅入ってしまう回想から逃げ切るために、世一の叔父が吹くハモニカだ。私の音は深い雪に染み渡り、厚い氷を貫いて養魚池の底まで達し、厳選されて今に至る錦鯉を優しく包みこむ。私は隙をついて重くのしかかってくる遠いむかしの出来事を斥け、彼の背中で躍る緋鯉の荒くれた心を鎮めようと、一時間、二時間と単調な流れを繰り返す。
今や彼の吸う息吐く息には殺気のかけらもなく、若かりしその上の是が非でもけりをつけたがる血の騒ぎもまったく感じられない。稀薄な太陽が然るべく方角へ傾き、まほろ町は漠とした落日の時を迎え、そして地の底からは啓示的な闇が湧きあがってくる。夜が私をたしなめる。もうよさないか、と言う。しかし、彼はそれでも吹き鳴らす。知っている曲を全部吹き、うろ覚えの曲も吹き、しまいには闇の淵へ向ってどこまでも沈んでゆくような、即興で作られた、静か過ぎる曲を吹く。
私は彼の人となりを語り、片意地な男の末路を暗示する。やがてすべての蟠りが失せ、気持ちがすっかり落着くと、彼は私をそっと炬燵の上に置いて、部屋の灯りを点ける。塩蔵の魚でも焼いて一杯やろうと、立ちあがる。そのとき屋根の雪が一気に滑って、どさっと落ちる。同時に彼は豹変し、何をしでかすかわからない男へと戻ってしまい、咄嗟に私をひつつかんで、私憤を晴らそうと、身構える。
(2・13・月)
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