『千日の瑠璃』131日目——私は節穴だ。(丸山健二小説連載)
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私は節穴だ。
ほんのたまにしか人が通らない路地と歯科医の家の敷地を截然と分ける、板塀の節穴だ。私の内側にはしこたま金のかかった和風庭園があり、邸宅のなかには絵に描いたような福々の円居が満ち満ちている。そして私の外側では、厭世の元凶にも充分になり得る寒風が吹き荒れている。ほどなく、怠け者のまま老いてしまい、今でも気が向いたときしか働かない男がやってくる。今彼が食べているバナナは、横町の八百屋の店先から、年寄りとは思えぬ素早さでくすねたものだ。
男はバナナの皮を板塀の向うへ放ってから、いつものように、充血した右の眼を私に押しつけてくる。その眼は成功すべくして成功した同級生を妬んで、更に赤くなる。ついで彼は、私を狙って長々と小便をする。だが、彼にやれるのはせいぜいそこまでだ。ただそれだけで彼は満足し、却って惨めな思いを深めることもなく、まるで大仕事でも成し遂げたかのように、意気揚々と引きあげて行く。
しばらくして、今度は少年世一がふらりと現われ、中腰になって私を覗きこむ。彼の澄んだ眼に映し出されたのは、突発的な親子喧嘩だ。鼻下に立派な髭をたくわえた父親と、目鼻立ちが整い過ぎて薄気味わるい長男が、激しくやり合っている。先に手を出したのは父親だ。取っ組み合いが始まる。食卓がひっくり返される。窓ガラスが割れる。とめることもできない母と娘が、金切り声をあげる。
(2・8・水)
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