『千日の瑠璃』117日目——私は氷原だ。(丸山健二小説連載)
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私は氷原だ。
俘虜としてシベリアの冬を体験した男が、全面結氷したうたかた湖から追想する、めくるめく氷原だ。私を前にしてこちこちに凍って死んだ仲間に、男はあらためて弔意を表し、牢記して忘れないと幾度も誓った骨髄に徹する恨みを懐かしむ。この四十数年のあいだ彼は、思いを晴らすことができなかった。心中の余憤を漏らすばかりで、どこの誰に対しても一矢を報いることはできなかった。
彼自身、国家隆昌の気運に酔い、見せかけの繁栄のおこぼれに与ろうと賑々しく町へ繰り出す者のひとりにすぎなかったのだ。あの戦争の真相と真意をつかみそこねているうちに、かつては神だった天皇が死に、やはり神のようにして葬られようとしていた。そして、跡目を継ぐ次の天皇を、隙あらば象徴以上の地位に祭り上げていい思いをしようと企む輩は、人々の無知と強い者に従いたがる習性につけ入って、またしても蟻の思想の扶植に熱を入れ始めていた。
お上の言を軽信し、邪説に聴従し、公安を害したがらない、そんな無毒な性格を誇る人々の数は、増えてゆく一方だ。何十年経っても短慮性急な国民性であることに何ら変りはない。己れの内と私の彼方に繰り返される草昧の世をしかと見て取った男は、傍らを傷病兵よりも酷い歩き方で通って行く少年に、こう言った。「いいんだ、いいんだ、どうなろうと。おれはもうじきくたばるんだからな」
(l・25・水)
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