『千日の瑠璃』96日目——私は自動販売機だ。(丸山健二小説連載)
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私は自動販売機だ。
あやまち川を背に、街道を前にしてぽつんと立っている、故障知らずの自動販売機だ。昼間はともかく、こんな夜更けに私を訪ねる奴なんてそうざらにいるものではない。時間の観念やら予定やらを一切持たぬ少年世一が、またやってきた。彼は物知り顔で、私を相手に長々とオオルリの自慢話をしてから、いつものようにポケットを全部裏返しにして小銭を取り出した。どこかの誰かにもらったという高額の紙幣は棄ててしまった。
世一はお気に入りの客だった。しかし私には、彼だけを特別扱いするような力が備わっていなかった。値引きはもちろん、味をよくしてやったり、量を増やしてやったりすることもできなかった。世一が熱いカップラーメンを抱えて暗がりのベンチに坐ったとき、珍客が現われた。私が彼のことを覚えていたのは、剃りあげた頭と墨染めの衣のせいだった。
半年ほど前にもきたことがある若い修行僧は、今回もまた三種類のラーメンを、一滴のスープも残さないで平らげた。それもほんの十分間くらいのあいだに。「ああ、食った、食った」と彼は言い、「これが人間の食い物ってもんだ」と言い、隠して持っていた煙草をすぱすぱと喫った。そして面前の世一に気づいてぎょっとなり、挙措を失い、うつせみ山の禅寺へ通じる坂道をあたふたと引き返して行った。「まだまだ駄目だな」という世一の呟きが月の光に溶けて、僧のあとを追った。
(1・4・水)
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