『千日の瑠璃』90日目——私は新巻鮭だ。(丸山健二小説連載)

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私は新巻鮭だ。

湖畔の別荘に住む元大学教授が、かつての教え子から歳暮として送られた、本場の新巻鮭だ。箱を開けた夫妻は私をひと目見て思わず感嘆し、併せて自分たちがまだ忘れ去られた存在ではないことを知り、声をうわずらせた。そしてふたりは口々に私を誉め称え、ろくな魚が手に入らないまほろ町をこきおろして楽しんだ。軒下に吊るされた私は、山国の乾いた空気に包まれながら、ときおり吹く寒風にゆっくりと回転した。

夫妻は私の価値を正しく理解していただけではなく、私の扱いまでよく心得ていた。だが残念なことに、私を食す資格はなさそうだった。森と湖に挟まれた道を、意志に反して動いてしまう体を持つ少年が通りかかると、ふたりは病気の恐怖を思い出し、急に自分たちの健康を気遣って、塩分の摂り過ぎがどうのこうのと言い出した。

「まだ死にたくないわ」と妻が言い、「あと十年は生きたいよな」と夫が言った。「十年後には食べたくても食べられなくなっているわよ」と妻。「これまでたくさん食べてきたじゃないか」と夫。私としては「こうなったら食べたい物を食べてさっさと死のう」という言葉を待ったのだが、遂に聞かれなかった。昼食前に私は元の箱におさめられ、宅配便のトラックに揺られてどこか遠くへと旅立った。「おまえらはとっくに死んでるよ」それが私の棄てぜりふだった。
(12・29・木)

丸山健二×ガジェット通信

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