『千日の瑠璃』88日目——私は暦だ。(丸山健二小説連載)

 
私は暦だ。

まほろ町の宣伝のために役場が作って方々に配ったものの、評判があまり芳しくない暦だ。ごっそり余ってしまった分は、職員たちがやむなく家へ持ち帰った。鬘無しでは歩けない職員だけはなぜか私を気に入ってくれ、自宅の居間の壁に貼った。しかしそれは、来年の予定を立てるためでも、漠とした希望を胸に年を越すためでも、歳月の空しさをあらためて噛みしめるためでもなかった。

彼のどんぐり眼は、私の三分の二を占めている郷土出身の演歌歌手に注がれていた。彼女が有名になればまほろ町の名も広く世間に知れ渡り、そうすれば観光客は数倍にも数十倍にも膨れあがるはずだ、と言ったのは町長だった。やがて男は鬘をむしり取りながら、ヒット曲が出るといいんだが、と呟いた。彼の連れ合いが横から口を出した。たとえ売り出しに失敗しても、郷里へ帰ってくればいいと言った。「あんないい娘はちょっといないもの」 と彼女は言った。男も領いた。

そしてふたりは、自分たちの心がいつしかわが子から他人の子へと移っていることに気がついた。だが、顔を曇らせたりはしなかった。ふたりはただ、ナメクジに似た動きで急な階段を降りてくる少年を見ないようにしただけだった。便所に入った少年は、とても人間とは思えない声を張りあげた。その子の父親と母親に、私は静かに問い掛けた。そうやって来年も生きる意味は何か、と訊いた。
(12・27・火)

丸山健二×ガジェット通信

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