『千日の瑠璃』86日目——私はケーキだ。(丸山健二小説連載)

access_time create

 

私はケーキだ。

売れ残ってしまったために半額で売られ、それでも尚買い手がつかないクリスマス用のケーキだ。菓子屋の主人はさんざん舌打ちしてから、私の命をあと一時間と区切った。そしてあっという聞に五十九分が過ぎ、とうとうガラスケースが開けられ、死刑執行人のぼってりした手がこっちへ伸びてきた。あわやというとき、主人の眼が、ショーウインドーの向うを行く、青い帽子をかぶったおかしな少年を捉えた。

主人は大急ぎで私を箱に詰めこみ、金の星をちりばめた紙で包み、リボンまで掛けて表へ運び出した。もしもそのまま主人の気持ちが変らなかったら、私はおそらくまほろ町で最もクリスマスの趣旨に即したケーキになれただろう。通りを吹き抜けてゆく三省を促す北風に晒された途端、主人の考えは一変したのだ。「棄てる物だからあげるという了見はよくねえ」と彼は自分に向って言うと、すぐに店へ取って返し、早く気づいてよかったという思いをこめて、私を箱ごとごみ袋へ投げこんだ。

ところがその数分後に、私をあてにした客が現われた。片時もじっとしていない体を支えるための乱れた足どりと、鳥に近い声を発することで、それがさっきの少年だとわかった。彼の後ろで、「もう売り切れてしまったんだって」と言っているのは、母親に違いなかった。その客は何も買わずに出て行った。
(12・25・日)

丸山健二×ガジェット通信

  1. HOME
  2. エンタメ
  3. 『千日の瑠璃』86日目——私はケーキだ。(丸山健二小説連載)
access_time create
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。