『千日の瑠璃』83日目——私はシクラメンだ。(丸山健二小説連載)

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私はシクラメンだ。

青々とした月が差し昇る頃、バスに揺られて雪のまほろ町へ辿り着いた、赤いシクラメンだ。無精者のくせに見栄っ張りな女は、私ひとつを小脇に抱えて、何の気負いも感慨もなく、すっと異郷へ足を踏み入れた。出迎えた長身の青年が、荷物はそれだけかと訊くと、彼女は「これさえ持ってくればいいんでしょ」と言って、自慢の乳房をゆさゆさと揺すってみせた。青年は、雪と同じ色の、立派だが下品なクルマに私たちを乗せて走り出した。極楽とんぼの女は、相変らず疲れを知らなかった。しかし私は長旅でくたくたで、暖かい空気と新鮮な水に飢えていた。

女は鼻歌を歌いながら窓の外を眺めていた。彼女ならたとえ地獄だろうと馴染んでしまうだろうが、私はそうはゆかなかった。この土地は私に適していなかった。寒いというだけではなく、どうやっても溶けこめそうにない雰囲気が、そこかしこに漂っていた。まだ七時を回ったところなのにすっかり人気の絶えた通りは、私を拒んでいた。そして前方を、警笛などものともしない少年が、水母のような動きでもたもたと横切って行った。「くそがきめがあ」と青年は呟いた。「何あれ、人間?」と女は言い、「こんな町で商売になんの?」と言った。病気の少年は遠のき、青年は押し黙って運転をつづけ、如何なる巡り合せも受け入れる女は長い煙草に火を点け、私は花としての意志をひとまず鉢へ封じこめた。
(12・22・木)

丸山健二×ガジェット通信

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