『千日の瑠璃』73日目——私は宿だ。(丸山健二小説連載)

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私は宿だ。

ずっとむかしからつづいている、しかし今では変り者の旅人がたまにしか訪れない、《三光鳥》という名の宿だ。これまで私は、うたかた湖の四季の風と、湖畔に佇み旅愁を味わう客を呑みこんでは吐き出し、吐き出しては呑みこみながら、代々の主とその家族の生活を支えてきた。むろん波風もあり、浮き沈みもあった。累次の火災で無一物になりかけ、女色に耽った主のせいで二度ほど人手に渡りかけた。

だが、最悪なのは今の私だった。消防署から厭味を言われ通しの私には、もはや担保としての価値もなかった。また、過労がもとで子どもを産めない体になり、そのせいで婿養子に逃げられ、去年母親を亡くしてとうとう独りぼっちになってしまった女将は、呑めない酒を呑んで私に八つ当たりする毎日を繰り返していた。彼女に言わせると、彼女はこの私のせいで一生を棒に振ったのだという。それでも彼女は私から離れなかった。建物はともかく、土地や庭木は売れる、と銀行員は意を尽くして話したが、彼女はそうしなかった。これという対策を講じないまま今に至っていた。

今朝女将は、私の敷地の一部になっている湖岸で、水と土の境に、陽炎のようにゆらゆら揺れている少年を見つけた。私は彼のことを知っていたが、女将は知らなかったようだ。彼女は少年に声をかけた。野良猫を手懐けるときの要領で、世一を招き寄せた。
(12・12・月)

丸山健二×ガジェット通信

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