「祝祭的脱原発デモは日常化し、分散する」 社会学者、毛利嘉孝さん<「どうする?原発」インタビュー第7回>
脱原発デモは、「祝祭的」と言われている。音楽を流しながら、仮装した人たちが練り歩き、お祭りと見まごうパレード。そこには、かつて日本で頻発していた、警察と激しく争う安保闘争デモのような様相はない。毎週金曜日に東京の首相官邸前で行われるデモや、東京・高円寺のデモに代表されるような脱原発運動の源流は、どこにあるのか。そして、どこへたどり着くのか。ストリートで展開してきた日本の政治と文化を研究する社会学者、毛利嘉孝さんに尋ねた。
■脱原発デモの源流は80年代
「安保闘争以後、日本にはデモがなかったと言われています。確かに、基地問題のある沖縄などは別として、政策の中心である東京に限定すれば、個人的な記憶でも大規模なデモはほとんどなかった」と振り返る。
「歴史的には1950年代終わりから1970年代初頭まで、安保闘争をはじめさまざまなデモが頻発していました。それ自体は、ある種のマルクス主義的な思想と結びつきながら、学生、労働組合、政治団体が中心となっていたもので、中にはかなり過激な運動もあった」
こうしたデモは、連合赤軍あさま山荘事件や連合赤軍のテロ事件などを経て求心力を失い、1970年の大阪万博で幕開けする消費社会の中で、急激に失速してゆく。「政治的な運動が消えたわけではなく、水俣病などの公害運動なども続きますが、デモという形式は見えづらくなりました。消費社会が到来し、若い人たちはデモをダサいと感じ、離れていった。政治的運動は政府に抑圧され、ファッションとしても見捨てられたわけです」
しかし、唯一の例外があった。1980年代に起こった反原発運動だ。毛利さんはこう指摘する。
「核問題を描いたアメリカのドキュメンタリー映画『アトミックカフェ』が日本でも1982年にヒットしました。連動して尾崎豊さんら有名ミュージシャンが参加したコンサートも開かれ、大衆的な運動になりました。1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて反原発運動が起こり、1988年の集会には日比谷公園に2万人ぐらい集まりました。サブカル系メディアで反原発報道があり、若者の参加率も高かった。これは今の脱原発運動を考える上で重要で、祝祭的といわれているようなデモの源流でもあります」
■進化したデモのスタイル
こうした反原発運動は、80年代末までは盛り上がっていたものの、90年代のバブルのピークとともに縮小する。「しかし、実は、運動はリニューアルされていました。デモに関していえば、2003年のイラク戦争で起こった反戦運動を契機に、日本でも『サウンドデモ』という形式が出現しました。トラックの上にスピーカーを積んで、音楽を流しながら動く。それまではシュプレヒコール中心だったデモに音楽が入るようになったのです」
欧米ではデモが日常的に行われ、規模も日本に比べて大きい。例えば昨年、福島原発事故直後にドイツで行われた反原発デモには、20万人が集まったと報じられている。ドイツ政府も民意を受け、脱原発へと舵を切った。「日本では、脱原発デモに10万人以上集まると、すごい数字として報道されますが、ヨーロッパでは普通です。2003年のイラク戦争開戦時、イギリスでは100万人以上が集まったこともある」。デモは表現の自由と密接に結びつき、民主主義の象徴であるという意識が、欧米先進国は特に強いという。
とはいえ、「デモがない」と言われてきた日本でも2000年代に入り、新しい形で行われるようになる。毛利さんが注視してきたのは、非正規雇用の若者たちによる闘争だ。経済が低迷しフリーターの若者が増加。彼らは政党や組合とは無関係のデモで窮状を訴えた。また、2005年から高円寺でリサイクルショップ「素人の乱」店長の松本哉さんがスタートしたデモも、現在の脱原発デモの広がりにつながっているとみる。
「首相官邸前のデモは、1990年代から2000年代にかけて蓄積されたデモのノウハウが生かされています。祝祭的と言われていますが、これまでに発達してきたスタイルとの連続性がある。しかし、決定的な違いは、3.11です」と毛利さんは語る。
■マイノリティからマジョリティの運動へ
「それ以前のデモは、サブカルチャー的で、人数的にもマイノリティでしたが、東日本大震災以降はマジョリティの問題になった。ツイッターやフェイスブックなどソーシャルメディアが爆発的に普及する時期と重なり、デモの広がりを後押ししました。ネットには情報が相当、蓄積されています。
また、今までデモは都市型の運動の形式でしたが、3.11で地方に対する関心が高まった。福島から来た人も東京のデモでアピールしています。よく中央と地方の対立と言われます。確かに福島原発事故以前はある種の対立があったかもしれません。でも、この1年の間に対話が進み、東京の人もなぜ福島の人が避難しないか、できないのかが分かってきている。今、脱原発運動は被災地を含んだ全国的な運動になっているという実感はあります」
首相官邸前デモを主催してきた首都圏反原発連合は8月22日、初めて官邸に入り、野田佳彦首相へ申し入れを行い、ひとつの節目を迎えた。では今後、脱原発運動はどこへ向かってゆくのだろうか。
「いくつかシナリオはあると思います。再稼働された大飯原発は、そんな簡単に止まらないかもしれません。電力会社と政治家は結びついているので、少し時間がかかるでしょう。とはいえ、中長期では変わっていくだろうし、変わるべきだと思う。もちろん、運動がしぼんで崩れていくという悪いシナリオも考えられる。
でも、今の脱原発デモは、デモだけはなく各地で小さな集会や研究会、映画上映会などにも大勢の人が来ているという点で厚みが違う。首相官邸前の大きなデモだけを見て評価するのは、今の政治の見方としては一面的です。人が一カ所に集まるのは重要だけど、政治的運動の手法としてはむしろ古い。これからは、日常的に分散型の集会や議論が行われている方が政治にとっては脅威です」
運動が長期化し、地域に分散すれば、国政の足元へじわり、影響する。
「5年、10年で考えたら、絶対に原発は止めざるを得ない。今の政治は国民の声が必ずしも反映されてない。欧米が必ずしもいいとは思わないが、デモに関して言えば、他の先進国の例は参考になるでしょう。中長期にわたれば、デモは影響力がある。かつてのデモのように闘争的なスタイルだけでは、原発は止まらない。廃炉にするにも時間がかかるので、それなりに成果を出すには時間がかかるかもしれません。今は、その最初のステージに立ったばかりです。これは、日本の政治の、一種の民主化の運動だと思います」
■毛利嘉孝(もうり・よしたか)
社会学者、東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科准教授。長崎県生まれ。京都大学経済学部卒業、ロンドン大学で博士号取得。音楽やアートといったカルチャーとメディア、社会運動を中心とした研究を行っている。著書に「文化=政治――グローバリゼーション時代の空間叛乱」(月曜社)、「ストリートの思想――転換期としての1990年代」(日本放送出版協会)など。
◇関連サイト
・特集「どうする?原発」
http://ch.nicovideo.jp/channel/genpatsu
(猪谷千香)
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