続・ハチのムサシ
今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
続・ハチのムサシ
1979年に作られた「戦国自衛隊」という映画。子供の頃に見たときはあまりおもしろくなかった。隊長格の人物が、どんどん暴走して「俺たちで天下をとる!」みたいな流れになっていくのが、子供心に「なんの権限があって」と思ってしまった。
だって自衛隊の一部隊の隊長に過ぎないわけで、実際最初の方はそういうスタンスで行動していた。戦国時代の争いに不用意に介入してはならない、自衛隊は防衛が任務だ、みたいな。それが「天下を取れる可能性を手にしたなら、それを実現しようとするのが男だ」という方向に次第に変わっていく。
子供の頃に反発さえ覚えたこの流れ、いまあらためて思うと逆に「やっぱそうだろうな」と思ってしまう。自衛隊の一員というのはあくまで、現状がそうなっているからに過ぎない。状況が変化し、もしかしたら自分が、国を、時代を、変えられるとなれば、それにチャレンジしたい誘惑には抗しがたいだろう。
そもそもそうやって歴史は作られてきたのだ。歴史に残る人物たちは、誰かに許可を得て天下をとったわけではない。自分が取れると思ったからそれにチャレンジして、成功したわけだ。彼らは自分勝手な正義によって周囲に多大な迷惑をかけ、歴史を変えてきた。フランス革命、明治維新…。戦国自衛隊が描きたかったのもそういう部分なのだろう。子供には難しすぎた。
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話は変わるが、アニメ「サマーウォーズ」を批判する人は少なくない。批判する内容はそれぞれだけど、その一つに「あの家族はなんの権利があって好き勝手やってるんだ」というのがある。
ラブマシーンの暴走による社会の混乱をなんとかしようと活躍しているのだけど、でもそもそも誰の許可を得てそんなことをしてるの?と。自衛隊の通信装置とか勝手に拝借して使ってるし。なにより成功したからよかったものの、もし失敗して逆に被害が拡大したらどう責任をとるのだ?と。
まあこれが2000年代の典型的な日本の若者の考え方なのだろうね。世界を救うのにも誰かの「許可」がいるのだ。勝手なことは許されない。成功した場合のメリットではなく、失敗したときのリスクの方を重視する。
自分たちの家めがけて墜落してくる小惑星探査機の軌道をずらした件についても、結果的に空き地に墜落したからよかったものの、もし人口密集地に墜落したらどうするのだ?自分の家の被害を避けるために他人の家を犠牲にしていいのか、と。
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何をするにしても、誰かにその正当性を保証してもらわないと気が済まないわけだ。でも一方で「日本人はチャレンジ精神がない」とか言ってるんだよなぁ。そういう人達がいうチャレンジ精神ってなんなんだろう?
たぶん他人には一切迷惑をかけないし、かける可能性すら皆無、という範囲で自由で野心的なチャレンジをすることなのだろう。でもそんな窮屈なチャレンジ精神で、すごいことができるんだろうか。
サマーウォーズが訴えてたのもそういうことなんじゃなかろうか。やるべきだと自分が思ったら、誰かに許可なんて求めずにやれ、と。チャレンジ精神の本質というのは、他人にも自分にもリスクが降りかかることを恐れないことだ。
サマーウォーズを批判している人たちの本音はきっとこういうことだろう。誰だか知らない人間の身勝手なチャレンジ精神のとばっちりを受けてはかなわん、と。日本人の誰かがチャレンジし成功すれば日本全体の利益になるから考えだが、失敗してとばっちりを食うのはゴメンだということ。つまりどんなわずかなリスクも背負い込むのは嫌なのだ。その一方でチャレンジする人間にはリスクを恐れるなという。なんだかなぁ。
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「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」でも主人公が勝手に(笑)世界を救うのだけど、こちらはサマーウォーズのような批判があまりない。非現実的な仮想空間を中心に話が展開するせいかもしれない。サマーウォーズは上述のように自衛隊の装備を調達したり、おばあちゃんが人脈を使って行政機関に指示を出したりする。この中途半端なリアリティに反感を覚えるのだろう。
こういう傾向はわりと普遍的にあるような気がする。荒唐無稽な世界での物語なら、自分勝手な主人公が自由闊達に振る舞うのを手放しでかっこいいと容認するのに、妙にリアルな現代社会とかを舞台にしているフィクションだと、「なんの権限があって」「失敗したら」「描かれてないけどすげー周りに迷惑をかけてるよな」と拒絶反応を起こす。
知恵がつき始めた中高生によくある「現実は甘いもんじゃない」という「大人ぶった」思考から抜け出せてない人が多いのかもしれない。「大人ぶっている」あいだは、まだ大人じゃない。誰だってヒーローのように活躍したいものだ。ヒーローというと功名心とかを連想してしまい語弊があるか…。誰でも「俺がやらなきゃいけない」と思うことがある。ただせっかくのその感情を、多くの人は中途半端な知恵で「失敗したら」とか「誰かの迷惑になったら」と、ブレーキを掛けてしまう。誰にも迷惑をかけずにできることなど、一つもないのに。
荒唐無稽なフィクションでその願望を充足し、現実では「そんなの無理、考えたこともない」と割り切る。それってどうなの?フィクションに代償行為を求めている。こうなるとあながち1970年頃に盛んに言われた「マンガ・アニメ有害論」も信憑性を帯びてくる。逆の意味でフィクションと現実の区別がついていない。チャレンジ精神はフィクションの中で満たせばいいのだ、と。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
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