夏の終わりに読みたい二つの中編『エレベーター』『わが母なるロージー』

夏の終わりに読みたい二つの中編『エレベーター』『わが母なるロージー』

 暑さ寒さも彼岸までと言う。まだ夏が終わらないうちに、この本を読んでしまおう。

 そういう本を今回は二冊まとめて紹介したい。どちらも内容は濃いが、短い。気軽に手に取って、打ちのめされてもらいたいのだ。

 ジェイソン・レナルズ『エレベーター』(早川書房)とピエール・ルメートル『わが母なるロージー』(文春文庫)の二冊である。

 おそらくは本邦初紹介になるレナルズ『エレベーター』のほうから先に。内容の前に本の周辺のことを先に書いておくと、本作は2019年に発表された彼にとっては十冊目の著書にあたる。アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)やロサンゼルス・タイムズ文学賞のそれぞれYA部門を獲得しているほか、全米図書賞のYA文学部門のロングリストに選出されるなど、十の文学賞に選出されるほどの反響を呼んでいる。本書がそこまでの話題性を呼んだのは、これが切実な犯罪小説、しかも少年による復讐を描いた物語だからだ。

 物語が本の右からではなく左から始まる、つまり横書きであることに読者はまず気づくだろう。ページには短い文章が、おそらくは押韻も交えながら綴られていく。ゴシック体の見出しの後に続く言葉の列、ということで、1ページごとに詩を読まされているようだ。レナルズは少年時代から詩作をしていて、ヒップホップにも強い影響を受けているという。

 しかしこれは紛れもなく小説である。ウィリアム(ウィル)・ホロマンがこの話の主人公だ。ティーンエイジャーの彼の世界はおととい、がらりと変わってしまった。兄のショーンが撃たれて死んだからだ。彼はその哀しみを、道を歩いていたら見知らぬ人間にペンチで奥歯を引っこ抜かれてしまったようなものだと喩える。ぽっかり開いた空洞をいつまでも舌の先で探りつづけてしまうと。しばらくその事件の当日を綴る文章が続く。その死体がまるで廃品みたいに見えたこと、ショーンの手にはやたらとTHANK YOUと書かれた買い物袋が握られていたこと、それはアトピー性皮膚炎持ちの母さんのために買おうとした特別な石鹸だったこと、その母さんは哀しみのために酒を飲んで酔いつぶれてしまったこと。

 ウィルには街で生きる少年としての掟がいくつかある。その一つが復讐だ。

—-愛する誰かが/殺されたなら、殺したやつを/見つけだし、かならずそいつを/殺さなければならない。

 その掟に従って、ウィルはショーンの残した拳銃をこっそり持ち出し、ベルトの後ろに突っ込んで部屋を出る。階下に向かうべくエレベーターに乗り、ロビーのLのボタンを押す。その室内で起きる出来事を描いたのが、『エレベーター』という物語なのだ。下降するエレベーターが停まり、扉が開くごとに何かが起きる。動き始めてからロビー階に到着するまでわずか一分少々だが、兄を殺した犯人に復讐することしか考えていない少年にとって、初めて人を殺そうとしている少年にとっては、永遠に近い時間が経過しているかもしれない。その緊張に満ちた心の中によぎるものを具象化して描き出したと見ることもできるし、超常現象的な出来事と読み取る人もいるだろう。私はチャールズ・ディケンズの某作を思い出しながら読んだ。出来事によって試されているのは言うまでもなく、ウィルの掟であり、彼の覚悟である。人を殺そうという決意である。

 銃社会では容易な形で暴力が連鎖し、凶弾によって命を奪われる人が日常的に出る。そういう環境だから書かれた小説とも言えるが、日本でもこのウィルと同じような気持ちでエレベーターに乗っている若者は多いはずだ。毎日毎日、ベルトの後ろに見えない拳銃を挟んで、あるいはその幻の武器さえ持つことができないという苦しみを背負って、彼らはエレベーターに乗り、ロビー階につき、出て行きたくない外に向かって歩いていく。自分が決めたわけではない掟に縛られるしかなく、目の前にあるものを掴んで現実に対処するしかなく、無理矢理引っこ抜かれた奥歯をいつまでも舌先で探し続けるように哀しみから逃れられずにいるすべての人に向けて、レナルズはこの小説を書いたのだ。物語を通じてレナルズはあることを訴えかけようとしているのだが、それは書かずにおこう。短い物語であり、実際に読んで感じ取ってもらいたい。

 さて、もう一冊短い小説を。ピエール・ルメートル『わが母なるロージー』は、『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』『傷だらけのカミーユ』(すべて文春文庫)というパリを舞台にした三部作の警察小説で世界の読者を驚かせた作者による、主人公カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの番外篇である。番外篇とわざわざ断るのは、前三作と違って本篇が中篇の長さであり、歴史小説『天国でまた会おう』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を書いているときにふとした思いつきから生まれた小説であり、ここからシリーズを再開する意図はないとはっきり作者が言明しているからだ。物語の基調も、長篇三作がカミーユを視点人物としたスリラーとして書かれていたのに対し、本篇では短い分量で大きな物語を描くためか、事件そのものが戯画化され、全体も喜劇小説風の語りが目立つ。しかし中で描かれるのは、まったくもって悲劇極まりない人間関係なのだが。

 パリ市内のジョゼフ=メルラン通りで爆破事件が起きることから話は始まる。恋人の元に車で向かおうとしていたカミーユも呼び出され、警視庁へと急行する。彼を指名して、カミーユ・ヴェルーヴェンとしか話さないという男が出頭してきたからだ。名前はジョンだがジャン・ガルニエと呼ばれることを求める青年は、市内に合計七つの爆弾を埋めたと告白する。それが毎日一つずつ爆発する。防ぐ手立ては一つしかなく、彼と現在服役中の母親ロージーに五百万ユーロを渡し、オーストラリアへと亡命させることだ。そうしなければ決してジャンは爆弾の隠し場所を言わないという。

 到底肯じることのできない要求であり、報告を受けた政府は大いに揺れる。その中で、ジャンの告白には裏があると考えたカミーユは独自の捜査を続け、一つの結論に達するのである。いつ次の爆発が起きるかわからないというスリルと、証人の嘘を見破るという推理の興味がよい具合に配合され、読者を飽きさせることがない。一気に結末まで運ばれることになるだろう。

 悲劇と書いたが、それがいかなるものかはここでは紹介できない。ルメートルは人の心理の中に分け入ることを得意とする作家である。誰かがそうするしかなかった特異な心情というものが彼にとっては創作の核なのだろう。いかに奇矯に見えても、それが切実なものであれば強い動機になる。その動機を探し出す小説である。人間関係は単純で、真相らしきものはすぐに浮かんでくるだろう。しかし核の部分に到達できる読者は稀なはずだ。夏の逃げ水のように、そこに足を踏み入れたと思うとき、真相はさらに遠くに去ってしまっているからである。夏の終わりを惜しむかのようにわずかの間瞬いて、光は消える。これでカミーユ・ヴェルーヴェンともお別れなのだな。

(杉江松恋)

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