藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#57 龍

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 私の誕生日であるは8月8日は、龍神の日とされている。8という数字は無限を表し、龍神の無限なる力を表すそうだ。
 その真偽はさておき、私には二つの小さな龍のタトゥが入っている。一つは東洋の、もう一つは西洋の龍で、20代のバックパッカー時代にバンコクにて、ほぼ思いつきで入れてもらった。  
 もともと龍に特別に思い入れは無く、タトゥ屋にあるサンプル像から二つ選んで腕と胸に入れてもらった。一生消えない図柄を彫ることに対しての覚悟もないまま、ちょっと高価なTシャツを買うが如く、入れてもらったのだ。
 龍との逸話はまだあって、息子の名は龍之介である。この時も芥川龍之介を念頭に置きながら選らんだだけで、伝説の聖獣にあやかったわけではなかった。
 龍の日8月8日に生まれ、龍のタトゥを持ち、息子の名は龍之介。こうも重なっていることに気づけば、さすがに「龍」を意識する。ということで、このへんで龍について一度しっかり踏み込んでおこうかと考えた次第だ。

 日本においては信仰の対象とされることが多く、箱根の九頭竜神社などは一時ブームとなって、芸能人やアーティストが押し寄せた。私の知人達の多くもその神社に参拝して、その霊験を熱く語ってくれた。祈願する事柄には、商売での成功が多いようだが、病気快癒も含まれ、龍とヒーリングの関係も気になるところだ。
 いくつかの文献を紐解くと、古代から世界各地で龍が存在していたことがわかる。勿論、人々の想像の中にである。私たち日本人が親しんでいる龍の原型は中国にあり、さらにその元を辿ると、インドに行き着く。仏教の守り神として崇められ、ブッダと共に彫像になっている姿を見たことがある人も多いだろう。だが龍は仏教以前からインドに存在していて、多頭の龍であるナーガとして知られている。日本の龍の祖先を辿ると紀元前のインドにまで遡るのだ。
 日本への仏教伝来ルートに北伝と南伝があるのと同様に、龍においても、まさに北伝の中国経由と、南伝の東南アジア経由がある。多頭龍ナーガは、アンコールワットなどの遺跡にも見られ、箱根の九頭龍などは南伝の影響下の元で日本独自に発展した結果であろう。一方北伝である中国のものは、基本的に頭は一つであり、現在の日本人が親しんでいる一般的な龍の姿に当たる。それは寺の法堂の天井画などに見られるほか、神社などあらゆる神社仏閣に配置されている。
 私の二の腕には、このアジアの中でも北伝由来の龍が彫られているが、心臓の上に当たる場所には、西洋の龍が彫られてある。西洋の龍の起源も古く、遥かオリエント文明にまで遡る。そこからペルシア、ギリシアを経てヨーロッパに渡り、主に人類と敵対する害獣として扱われてきた。アジアでは聖獣なのに対し、ヨーロッパでは害獣である。正反対の存在として一般的に認識されているのが興味深い。人智を超えた力を持つ獣を、共通の敵として、言わば仮想敵として据え置くか、人間の裡に取り込んで崇めてしまうか、それは民族の気質や歴史の背景などが理由としてあるだろうが、アジア人とヨーロッパ人の自然観を象徴しているようでもあり、興味深い。

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 龍が存在していたのは、アジアやヨーロッパだけではない。南米大陸では神として扱われ、アステカでは、ケツァルコアトルという名で毛がある獣であった。このように世界中で多発的に龍が存在したのは、その原型として当然大蛇が考えられると思うが、実際に龍そのものが現在も存在していて、チャネリング次第で可視化されるような気もしている。DNAに刻まれた人類共通の古い記憶に龍と共存していたページがあると想うこともできるだろう。

 ヨーロッパでは悪者とされ、アジアでは聖なる生き物、南米では神とされた龍は、本当はいったい何者なのだろうか。

 歴史はどうであれ、現代の世界で最も龍を敬っているのは、日本だと言われている。元々中国では、皇帝などによって権力の象徴として扱われ、信仰色は薄かった。その典型的な例として爪の数がある。皇帝御用達の龍は5本爪であるのに対し、一般向けのそれは4本爪で身分を反映していた。皇帝はいわば龍の威を借りていたのであり、龍はその権力の象徴であった。この例について面白い話があるのだが、先日訪れた長崎県壱岐島にある龍光大神という神社にある龍には7本も爪がある。皇帝の5本よりも2本も多いのだ。地元のスピリチュアル好きな女性によれば、世界有数の力がある龍がそこにはいるということだ。その真偽は分からないとしか言えないが、その場所自体は素晴らしい気に満ちているので、信仰と対象になるのも良くわかるのだった。

 さらに個人的な体験談になるのだが、その壱岐島での滞在中に、42社巡りを2日間で敢行していた時に、ある神社の上に龍の形をした雲が二つあるのに気付いた。雲はそもそも見ようによっては無限の想像力を掻き立てるものなので、こじつけ気味になりがちだが、その雲は自分にとって見た瞬間から龍に見えたのだった。これまでもふと見上げた青空の中に龍の形をした雲を見つけることがよくあったが、その旅の中で、龍光大神や、別の龍蛇神社を参拝したあとだったので、やおらその気になっていたのだろう。見事にうねった龍の形をした雲にしばし見とれてしまった。そうなったら完全にドラゴンモードである。タトゥやら誕生日やら息子の名などが、ひっくるめて必然に思えてきて、普段買うことのないお札まで連れて帰ることになった。その後、龍に関する書物をいくつか読んでさらに龍を身近に感じるようになった次第である。

 龍とはいったい何者だろう、という話に戻る。
 インドやオリエント、南米で、大蛇など実在の動物をベースに想像力で膨らませた過程を経て、それぞれの文化の中で悪者になったり聖者になったという物語とは別に、人類共通の記憶の原型として言語と文化を超えて、どうしても存在してしまう何かが龍と呼ばれているのではないだろうか。

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 龍は現在の世界の中で、特に日本において最も信仰の対象とされていることは先に記した。輸入元の中国では皇帝の権威づけに利用され信仰と対象としての存在感は薄れたが、一方、世界で初めて中国において神聖視されたのも事実である。
 中国に興った陰陽思想では、万物は全て陰と陽と、その中間の平に分けられる。龍は陽が最も極まったものとされ、太陽と同格とされた。中国では都などで東西南北に4神が配置され、西に白虎、北に玄武、南に朱雀、そして東に青龍が置かれた。東は太陽が登ってくる方角である。空高く上昇する日輪に、龍のイメージが重なり、陽のエネルギーの象徴として崇められた。
 また、龍脈、龍穴という考えもある。龍は海や川や泉や湖など、水のある所に棲み現れるとされ、つまり水脈の象徴とも考えられている。その拡大解釈として、気の流れである気脈の象徴ともなっている。気のいい所には龍が住んでいるといわれる所以である。そして龍穴とは気が大地から噴出している場所であり、神社や聖地などは龍穴に相当する例が多い。なので、聖地とは龍がいる場所とも言われているのである。

 気というのは、宇宙に満ちている目に見えないエネルギーのことである。地球上に生きている者は、中でもその地球発のエネルギーの影響を強く受けて暮らしている。地球の奥深くから龍穴を通って地上に出た気であるエネルギーは、気脈に沿って循環したり流れたりしているのだが、大きなビルなどで、それを遮断してしまうと、その土地に本来流れている気が逸れたり消失したりしてしまう。風水師は、その気の流れを活かしながら家や街を見るのに長けた人々で、宮大工もその職業上、気を読むのに長けた人々である。言い方を変えれば、彼らは龍が見えたり読めたりするのである。初めて訪れた土地に、なんともいえない心地良さや、力がみなぎってくる感じを経験したことはないだろうか?おそらくその土地は、気の流れがいい土地で、人間は本能的にそういう場所を選んで住み始め街を作ってきたのだと思う。だが、開発などで龍脈が破壊されて気が停滞、消失すると、街は斜陽へと傾き始める。血行の悪い部分が凝ってくるように、土地の活力が落ち、人の活力が落ちるのだ。
 人が神社などの聖地に向かいたくなるのは、龍穴から噴出する気を浴びて、気を元に戻そうとしたいからで、まさに元気になりたいからだ。社殿で手を合わせ、仏像に経文を唱えるのも、実は気浴となっている。だが、邪気という言葉があるように、気にも悪い気があって、どんな聖地でも人々の悪い気が集まれば、そこの気は乱され、もはや聖地ではなくなってしまう。もちろんそれは一時的な場合がほとんどで、一夜開けた人が少ない時間帯には清々しく参拝できる。
 気が合うという言葉もあり、自分と土地との気をうまく合わせるのが、聖地を訪れて、その土地のエネルギーと交感するコツである。身を頑なに力ませに願いばかりを唱えるのは、交感にはならない。自己暗示と発奮するきっかけにはなるが、それだけであり、気を合わせることは難しい。むしろ自分の気を整えてその土地にそっと置き、その置いた分だけを土地から受け取って縁を結ぶくらいが丁度よい。気をいただくというよりも、気を交換するのである。まず自らの良い状態の気を先に与えることである。本来はそれだけでいい。与えた分だけできた身体内の空白に自然と土地のエネルギーが流れ込んでくれるはずだ。自分の裡なる龍と、土地の龍とが入れ替わる感覚は、小さな転生のようで、愉しみになるのではないか。

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 私はどちらかといえば、リアリストの傾向があって、宗教やスピリチュアルな事柄に対しては、まずは一線を引いて様子をみるタイプだ。感覚と理屈を交えながら、腑に落ちるか冷静につとめ確認し、歩を小さく進める。少しでもおかしな匂いがしたらすっと離れることにためらわない。
 龍に関しては、あのような姿をした動物がいるとは思っていない。あれは漢の時代に中国で創作されたもので、想像上の幻の動物であると自分は考えている。ただ龍が象徴するエネルギーである気脈の存在は信じている。なぜならそれは目に見えないが、はっきりと自分には感じられるものであり、経験を通して信じ得るものだ。ただ、見えない何かに接するきっかけのイメージとして龍の姿は意味がある。雲をはじめ自然物が偶然龍の形をとることもあるだろう。それを見た時には、遠くに思いを馳せて、目の前の現実を近視的に見続けることから自らを解き放つ契機としている。
 現実の世界で、犬や猫などのペットがいるように、心の中で龍という動物と寄り添っているという感じが、私と龍との関係に近い。神様という漠然とした設定よりも、龍神さまとした方が、ビジュアル的にしっくりくるならそれでいいと思っている。その姿の向こうには気というエネルギーがあることは言うまでもない。
 芦ノ湖の九頭竜神社のように、多くの人が集まっても乱れない気が噴出している強力な気穴ならば、そこに行けば、素晴らしい気浴体験ができ、停滞から脱し、気の巡りが良くなったおかげで、幸運を引き寄せたり、技が上達したりすることは十分あるだろう。きっと世界中にはそういう気穴がまだたくさんあるだろうし、気穴も閉じたり移動したりするだろうから、新たな気穴を自分で偶然発見するかもしれない。気の流れを龍とするならば、それこそ龍がその姿を伴って現れるかもしれない。想像が何らかの身体的な仕組みによって、幻視とも本物ともつかない視覚体験をもたらす可能性を私は否定できない。それがおこったら実に楽しいはずだ。人類はかつてみなその滾るエネルギーを見ることができたのかもしれない。世界中にある龍の伝説は、そのエネルギーを見ていた時代の記憶が生み出したとも考えられる。

 さきほど息子を部活に送ったあとで、ドラゴンフルーツの花が美しく咲いているのを見かけた。思わず車を農道脇に止めて写真を撮った。こんなところにも龍がいるのだなと、深呼吸をひとつついた。

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#58」は2018年9月10日(月)アップ予定。

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