「不幸なのは自分だけじゃない」と気づいた時、道がひらけた ――全盲の教師・本多剛のキャリア
あなたがもし、多感な青年期に視力を失ったとしたら……どのような心境の変化があり、どのような進路を志し、どのようなライフスタイルを選んだでしょうか?
今回お話を伺ったのは、浪越学園 日本指圧専門学校で教員をつとめる本多剛さん。
本多さんは青年期に視力を失いはじめ、現在はほぼ全盲の視覚障害者として生活しています。職場では同僚・生徒からの信頼厚く、休日にはバンド活動やマラソン、食べ歩きなど多彩な趣味をエンジョイする行動派な一面も。そんな本多さんに、障害との向き合い方、働く上でのモットーを伺いました。
プロフィール
本多 剛 (ほんだ たけし)
1975年 埼玉生まれ。1998年 城西大学薬学部薬学科卒業。2001年 東京医療専門学校本科卒業。2003年 東京医療専門学校教員養成科を卒業後、株式会社クイックマッサージへ就職。同年 埼玉県立盲学校(現・埼玉県立特別支援学校塙保己一学園)専攻科の教員に。2009年より現職・学校法人浪越学園 日本指圧専門学校で勤務。
趣味はウェイトトレーニング、ランニング、プロ野球観戦、バンド活動など。
一度閉ざされた夢。支えになった父の言葉
—— 視力を失ったのは学生時代に?
中学生の頃に視力に違和感を覚えるようになり、高校へ進学後、大学病院で精密検査を受けました。その結果、「網膜色素変性症」という進行性の病気が判明しました。この病気は個人差があり、視力を失わない人もいます。私は実家が薬局で、将来はまず企業のMR(Medical Representative = 医薬情報担当者)として働き、いずれは実家の薬局を継ごうと考えていたので薬学部へ進学したのですが、在学中に急激に視力低下が進行し、字を読むことが困難になってしまいました。
そして、もともと学科試験が厳しい学部だったこともあり、本試験で単位が取れず留年してしまいそうになったんです。当時は薬剤師法の欠格事由に「視覚障害」が含まれており、資格取得への道は厳しかったことや※、進行する視力低下も不安で、勉強を続けることに限界を感じたため「もう大学をやめたい」と考えたんです。
※薬剤師法の改正(平成13年)により、現在は視覚障害者も薬剤師になることができます
父に相談したところ、意外にも中退を反対されたんです。「やめるのは簡単だ」と。しかし視力が低下したからといって留年が決まった訳ではないし、まだ再試験で単位を取るチャンスがある。可能性がある限り最後までやり遂げて、それでも駄目だったら諦めようと言われました。「そこまで言うなら……」と気持ちを切り替え、死にものぐるいで勉強して留年することなく無事卒業しました。この体験のおかげで、諦めずに挑戦することの大切さに気付きましたし、自信もつきました。視力のことも「この体で生きていこう」と受け入れられるようになりました。
—— その後、専門学校を経て「あん摩マッサージ指圧師」として社会に出たのですね。お仕事をする上で大事にしていることは?
私は施術時に相手がどんな表情をしているかは見えませんから、患者の体からの反応や声・息づかいなどに細心の注意をはらっています。よく「目が見えないと、耳が良くなるでしょう?」などと言われますが、そんなことはありません。例えば歌手のスティービー・ワンダーも目が見えないから成功したわけじゃないですよね。彼はもともと素晴らしい音楽の才能があり、そして努力をした人。私たちは晴眼者(目が見える人)と持っている感覚は同じですが、より意識的に音や触感から情報を集める必要があるというだけです。目が見えないから自動的に感覚が研ぎ澄まされているのではなく、工夫して技術にしているのです。
不幸なのは自分だけではない
—— 本多さんの「ポジティブさ」の根源は、どこから来ているのでしょうか?
ひとつは、専門学校時代の経験があります。
入学試験を受ける際、私は事前に「視力低下が進行中ですが、それでも受け入れてくれますか?」と学校側に確認していたのですが、実際に学校生活が進むにつれて、視力低下が深刻になってくると『盲学校に移った方が良いのでは?」と、やんわり退学を促されたんです。思わぬ提案に戸惑っていると、クラスメイトが「それはおかしい!そんな話に乗っては負けだ。君は負け続ける人生でいいのか?」と発破をかけてくれました。一緒に学校側との交渉にも協力してくれ、学生生活もサポートしてくれました。おかげで無事に卒業まで頑張ることができたんです。「人生とは戦い続けなくてはいけないもの」であり、今後の自分の人生は自分で切り拓かなくてはいけないのだと実感しました。
—— 前向きに戦う覚悟ができたのですね。
もうひとつは、盲学校で接した学生とのさまざまな経験も大きなものでした。視覚障害だけではなく、手足にも障害を抱える人、家庭環境や経済環境に困難を抱えながら懸命に頑張っている人たちに触れ、「自分だけが不幸なのではない」「自分を不幸だと思っているのは自分自身」なのだと、気づくことができました。
障害の有無に関係なく、誰しも心に暗い部分を必ず抱えているんだということを知りました。それからは教員としての考え方も変わり、相手に「こっちに進んだほうが幸せだ」と指導するのではなく、本人にとっての幸せが何なのかを尊重し、一緒に考えていくスタイルになっていきました。
自分は本当に教員に向いているのか?
—— 視覚障害を抱えてから、気づいたことは何かありますか?
今の日本社会は、自分のことで精一杯な人が多いのかな?と感じることがあります。たとえば私が白杖(盲人安全つえ)をついて外を歩いていると、子ども連れの親御さんがすれ違いざまに「危ない!」と叫ぶときがあるんです。正直ショックですよね。当然のことですが、視覚障害者は周囲に危害を加えようとして白杖をついているわけではありませんし、刃物などの危険物を振り回しているわけでもありません。
親にとっては我が子の安全が第一ですから、とっさに「危ない!」という表現になってしまう、悪気はないのだと頭では理解できるのですが、その叫び声は視覚障害者側にも聴こえているのです。「危ない!」ではなく「気をつけなさい」と、子供の方に注意を促すのが正しいあり方なんじゃないかと思うわけです。これはあくまで一例ですが、同様の違和感は生活シーンのさまざまなところでありますね。
想像力を働かせて、お互いが優しい気持ちになれる配慮ができる人が増えたらいいな…自分もそのような人間になりたいな…と思っています。
とは言え、社会生活のなかで時に憤りを感じてしまう自分もいて、こんな人間が果たして教員に向いているのか?と考えてしまうこともあります。ただ仕事をする以上は理想とする自分に近づけるよう日々努力していますし、「また心を乱してしまった」「どうすればよかったんだろう?」と常に自問自答していますね。
自分の仕事・職場は好きか?とことん向き合ってほしい
——さいごに、リクナビNEXTジャーナル読者へメッセージをいただけますか?
「今の仕事には満足していないけど、生活のためだから……」という人も大勢いると思います。そういう時は、「これは本当に自分がやりたい仕事か?」「いつかは好きになれる仕事なのか?」と客観的にとことん向き合う時間を持つべきだと思います。一方で矛盾していますが、引き際も肝心だと思います。自分の人生は一度しか無いですからね。
仕事って、好きかどうか本当の醍醐味が分かるまで、ある程度の時間がかかるものだと思うんです。「石の上にも三年」というように、ある程度の時間をかけてみて、それでも疑問に思うのであれば新たな道を探せば良いし、やりがいが見つかれば引き続きその道を探求すれば良いのではないでしょうか。
私も、自分は教員に向いているのだろうかとずっと悩み続けています。誰かの人生に自分が影響を与える怖さ、責任の重さとは常に対峙する日々です。
けれど仕事の向き不向きと、好き嫌いかは別のもの。私は今の仕事・職場がやっぱり好きなんですよね。さまざまなバックグラウンドを持つ人と出会うことができますし、指導や課外活動を通じて交流を重ねることで、自分の世界観も広がっていく良い環境だと思います。
また、本校の創立者である浪越徳治郎先生が掲げた「母心」…つまり慈悲の心をもって人と接する精神が、上司や同僚、そして学生にも浸透しているのでとても働きやすいです。
これからもここで働かせてもらいたいですし、卒業生が「あの先生、良かったな」と思い出してくれたら、一番嬉しいですね。
取材・文:伊藤七ゑ 撮影:向山裕太 編集:鈴木健介協力:日本指圧専門学校
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