“よそもの”の元俳優・榮高志が、徳島つるぎ町で地域活性の立役者として活躍するまでの道のり
「地方創生」や「地域活性化」という言葉がよく聞かれる昨今。新たな活躍の場を目指し、都市部から地方への移住者が増えています。
今回お話をうかがった榮高志さんもその一人。東京から徳島県つるぎ町に移住し、現地で起業した榮さんは、“よそもの”だからこそできることがあると語ります。榮さんは、いかにしてゼロからつるぎ町で人間関係を築き上げたのでしょうか?
【プロフィール】榮高志(さかえたかし)
高校卒業後、アメリカ留学を経て帰国し、13年間を俳優として都内で活動。2015年に徳島県つるぎ町に地域おこし協力隊として移住し、にし阿波地区の世界農業遺産登録に向けた活動などを行った。2018年4月に現地で株式会社AWA-REを設立し、現在は観光や教育関連などの事業を手がけている。
移住先候補は日本全国。そのなかで見えた、“徳島”の特別さ
――東京を離れる決断をされて、そこから徳島を選んだ理由は何だったのでしょう?
私はもともと、徳島とは縁のない人間です。生まれたのは大阪府の茨木市ですし、アメリカ留学を経て帰国してからはずっと東京にいたので、基本的に田舎暮らしをしたこともありません。
ですから、俳優を辞めて東京を離れることは決めたものの、しばらくは落ち着き先を決めかねていました。東京では移住フェアのようなイベントもよく開催されていたので参加していましたが、北から南まで移住先の候補は複数ありました。
そんなとき、私が東京で通っていた社会起業大学というビジネススクールの知人から、「徳島が面白いよ」と教えてもらったんです。その方は日本の古代史や文化に造詣の深い方で、私自身も興味があったのでよくお話していましたね。
例えば神様と仏様を一緒にお祀りする「神仏習合」の文化が残っていたり、「ジャパン・ブルー」のルーツともなった阿波藍にまつわるエピソードがあったりと、徳島には他の土地にはない歴史的、文化的な魅力があると感じました。
そこで2015年の9月に東京で開催された、徳島県の西部「にし阿波」を紹介する講演会を聞くことにしたのですが、そのとき、徳島県のつるぎ町が、にし阿波の伝統農法である「傾斜地農耕システム」の世界農業遺産登録を目指しているということを知り、何かお手伝いをしたいと思ったんです。
ちなみに、傾斜地農耕システムは、徳島県西部の山間部の傾斜地を活かした農法で、400年以上にもわたり継承されてきたものです。私が移住した後、2018年に世界農業遺産に認定されています。
――徳島に移住する際、お仕事はどうするつもりだったのですか?
その講演会のあと、つるぎ町が地域おこし協力隊のメンバーを募集しているという話を知り、講演会の翌日に役場の担当窓口に電話をして、その後採用していただけることになりましたので、まずは最初の仕事は確保した状態で移住することができました。
ちなみに、地域おこし協力隊は、総務省が主体となっている制度で、地域おこしなどに興味のある人を地方で受け入れて一定期間町おこし従事させるというもので、最長3年の任期中はお給料や活動費が支給されます。私は独身でしたし、生活するには十分でした。
自らの行動で切り開いた仕事と人間関係
――地域おこし協力隊に着任されて、どのような活動をされていたのですか?
町内に点在する集落を巡って地元の人たちの話を聞いたり、にし阿波の世界農業遺産のPR活動のお手伝いをしたり、地域おこし協力隊の活動は、役場のデスクにいるより外に出ている時間の方が圧倒的に長いですね。2年目以降は、海外からいらっしゃるお客様の対応も多くなりました。
でも、移住してすぐの頃は大変なこともありましたね。私は長年ペーパードライバーだったのですが、車なしでは動きようのない環境でしたから。ちょっと知り合いに会いに行くにしても、山をひとつ越えなくてはいけませんし(笑)。雨の日に山道を運転していて脱輪してしまって、とても心細い思いをしたこともありますが、通りかかった方が人を集めてくれて、助けてもらいました。
そんなふうに動き回っているうちに、人とのつながりも自然と濃くなっていきましたね。最初は馴染めるのか不安もありましたが、たくさんの人に受け入れていただき、今は毎日必ず誰かと楽しく話をしています。そういう環境はとても落ち着けますね。車にも鍵をかけなくなりましたし、東京にいた頃に感じていた閉塞感がなくなった気がします。
役者としてやりたかった発信を、起業家として果たす
――地域おこし協力隊の任期は最長3年とのことですが、その後のことは考えられていたのですか?
そうですね。移住前とは違って、つるぎ町という現場に身を置いてみて課題が見えてきたので、そこを解決する仕事をするつもりです。具体的には、「観光による、地域づくり」。多くの日本人が当たり前に思っていることが、世界にとっては奇跡であったりする。その当たり前に気付いて、今という時代を築いて我々に継承してくれた先人に感謝し、またそれを後世に伝えてゆきたいと考えています。
東京暮らしが長い私から見ると、徳島には都会では得られない素晴らしいものたくさんあるのですが、その価値が十分に認識されていないと感じるからです。
世界農業遺産の認定地域となった「にし阿波」では、家を一歩出ると壮大な四季折々の山の表情を楽しめますし、地元で採れる山菜や地鶏など食べ物も美味しい。文化的にも、都会では体験できない魅力に溢れています。
地域おこし協力隊の活動で観光ガイドをしていたのでよけいに感じるのですが、欧米などの旅行者の方々も、いつも徳島の壮大な風景に感動されています。ところが、地元の人は、必ずしもそのことに気づいていない。「こんな何もないところに人が来るはずがない」という話を聞くこともあり、非常に残念に思っています。
こうした地方に住む方々の意識は、日本の地方に共通した課題だと思います。「若者の流出が課題だ」という話もありますが、その裏側には、「たくさん勉強して、都会に出て就職するのが正解」という前時代的な思い込みがあるのではないでしょうか。
でも、必ずしも都会に出ることが正解ではないと思っているんです。そのことを伝えることは、私のように外からきた人間の役割だと思っています。私自身がかつて、アメリカ留学をしたときに初めて日本の素晴らしさに気づいたように、やはり中にいると見えにくい価値があるはずですから。
こうした想いから、私は2018年4月に、埼玉県や徳島市内から移住してきた隣町の地域おこし協力隊のメンバーたちとともに起業することにし、株式会社AWA-REを設立しました。主な事業内容は、観光ガイドなどの観光業や、セミナーやイベントなどの教育事業で、今後はIoTなどITを用いた活動も予定しています。
――これからの展開が楽しみですね。ところで、俳優としてのキャリアは今につながっていると思いますか?
そうですね。あらためて考えると、もともと俳優としてやりたかった、「日本の良さを世界に発信する」ということを、今は地方創生というリアルな舞台でやっているような気もします。私にとっては、こちらの舞台の方がずっと面白い。
私が事業を通じてやりたいことも、もしかすると俳優として担いたかった役割に通ずるものがあるかもしれません。映画やドラマを見終えてから振り返ると、「この登場人物がキーマンだったね」ということがありますよね。ちょっとした旅行や食事、あるいは会話であっても、人生を変えるような経験になり得る。私は、徳島県つるぎ町に身を置きながら、そうした役割を果たしたいなと思っているんです。 ――前編を読む
文・写真 小林 義崇
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