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イデオロギーのために戦う英雄性と虚しさ 古川日出男『ミライミライ』が描き出す「もう一つの戦後史」(1)

「この年のこの出来事がなければ、その後の世界はこう変わっていた」

歴史が好きな人であれば、この種の空想をしたことは一度や二度ではないのではないか。

「あったかもしれない別の歴史」に思いを馳せる、そんな人にとって、作家・古川日出男の長編『ミライミライ』(新潮社刊)は刺激的な読書体験になるはず。

第二次世界大戦後、敗戦国である日本はアメリカとソ連に分割統治され、ソ連に統治される北海道では、解散を拒否した旧日本軍の兵士らが抗ソ連のゲリラ戦を展開。日本政府は、インドとの連邦制の道を摸索する。

荒唐無稽だと思うなら、それは歴史を信頼しすぎというもの。この筋書きは大いにありえたのだ。あったかもしれないもう一つの戦後史『ミライミライ』について、古川さんに疑問をぶつけた。

(インタビュー・記事/山田洋介)

■戦争への熱狂はあっという間に沸騰し、あっという間に冷める

――タイトルの『ミライミライ』という言葉がまず目を引きます。これは昔話を語る時の「むかしむかし」の対になる言葉ですか?

古川:タイトルを『ミライミライ』にしたのは、あくまで単純に「一番強いタイトルを」と考えた結果で、「むかしむかし」との対比を意識してはいませんでした。

それはこの小説の執筆についてもそうで、昔話を書こうとか、昔話を逆転させようとは考えていなかった。この小説を書きはじめる10日くらい前に、「むかしむかし、詩人たちは銃殺された。」という最初の一文が頭にひらめいて、「そういう語り口か」と自分でも驚いたくらいです。

――この作品では、起こりえたかもしれない「もう一つの戦後史」が書かれています。第二次大戦直後の、戦後体制が固まる前の混乱状態の世界で、何か一つ違ったことが起きていれば作中世界のようになっても不思議ではなかったと思います。それくらいディテールに力がありました。

古川:一つ要素が違っていたら、違った歴史が百も生まれていただろうという体感ってありますよね。

その中の一つを選んでみて、「もしこうだったら」という仮定の話やパラレルワールドではない形で書いたらどうなるか。上から高飛車に作っていくフィクションではなく、作者である古川日出男という人間が、本当に存在している我々の世界とは違う世界に飛び込んで、見聞きしたものをレポートしているような感じになればいいなと思っていました。

作中世界の方が本当で、現実世界の方が偽物なんじゃないかと、読者が自分の足元がぐらつく感覚を抱くような小説にしたかったんです。

表紙

――国際政治の力学や、地政学的な国家戦略への造詣の深さに驚きました。小説を書くうえで資料を読んだというよりも、元々詳しい人が書いた印象だったのですが、普段からこういったテーマに関心をお持ちなのでしょうか。

古川:ありますよ。日頃から興味を持って情報を得ていないと、今回のような小説は書けないと思います。普段の関心事が小説に昇華されたのはよかったです。

5年前、10年前であれば、日常生活の前面にここまで国際政治のトピックが出てくることはありませんでしたよね。アメリカの大統領なんて誰でもいいやという世界で生きていたはずなのに、今はそうは感じられないですし、ISのような組織が出てくると、日本人も無関係というわけではありません。

グローバリズムにはいい部分もあれば当然悪い部分もあって、その悪い部分が具体的な問題として世界のあちこちで出てきている感覚は持っていました。だからこそ小説の中に、自然に国際政治史や地政学といったものが立ちあらわれてきたんだと思います。

――紛争や武力闘争についての深い考察がうかがえました。作中世界では、第二次世界大戦後の日本の本州以南をアメリカが統治し、北海道以北をソ連が統治しますが、北海道で続いていた抗ソ連のゲリラ闘争は、ソ連が北海道を手放したと同時に大義を失い、道民の心も離れていきます。古川さんは闘争そのものや戦い続ける人々をどう描きたかったのでしょうか?

古川:戦う人が何かのために戦っているとしたら、それは外側で応援する人がいないと成立しません。はじめは応援していた人々が次第に離れていく状況をリアルに書いてみたいという気持ちはありました。

現実の日本でも、第二次大戦の末期になるまでは、銃後ではみんな普段どおりに暮らしていて、最前線で人が次々に死んでいることとのギャップがありました。戦争が進んでこのギャップがなくなっていくことで、戦うことや死んでいくことの意味は見えやすくなったわけですが、裏返せばギャップがある限り前線で戦っている人は誰のためにも戦っていないともいえます。

国と国の戦争の場合は、銃後と前線で生じるそうしたギャップを無視して、「いいから戦え」といって戦わせることができますが、ゲリラ闘争は国家の縛りがない以上、イデオロギーや思想しか拠り所がありません。だから、「自分たちは何者なのか」と常に問われることになりますし、実際に戦闘に加わっていない周囲の人々との間で闘争への温度感にギャップができてしまうと、戦う意味が希薄になってしまいます。今回の小説でいえば、当初抗ソ連運動を熱烈に支持していた北海道の人々が闘争を必要としなくなった瞬間に、抗ソ組織は戦う意味を失くしてしまったわけです。

イデオロギーや思想のために戦うことの英雄的な面と虚しさや哀しさ、そして戦争を含めた武力闘争に対して、人々はあっという間に熱狂して、同じくらいあっという間に冷めるものなんだということを書きたかった。それを達成できたのはうれしかったです。

表紙

――自分たちの戦う意思以外のところで、外的環境という「風向き」にものすごく影響されてしまう悲しさがありますね。

古川:自分達だけで考えたり行動したりということはできませんよね。周囲の状況との兼ね合いの中で、自分の考えをクリアにしたり、過激化したり、他の集団と連帯したりといったことをしないと、戦いを継続させられない。

これは闘争に限らず、国でも個人でも同じです。周りがいてはじめて自分があるんだということには何か託している部分があります。

『ミライミライ』は一方で戦争を書いていますが、もう一方では音楽を書いています。音楽も聴く人という他者がいてはじめて成立するものですし、同じ志を持った人が連帯したり、「あんなバンドは嫌い」とか「こんな音楽は嫌い」という対立や反発があったりする。

そうした中で、いかに自分の音楽を対立する人にも届けるか、日本語がわからない人に、日本語を使うミュージシャンがどういうアプローチをするか。そこには色々な考え方と戦い方があります。この作品では音楽も戦争も同じこととして書きました。

――個人的には「無償の愛」と「利害関係に基づいた善意」の対比が鮮烈でした。作中に出てくる音楽グループ・最新”(さいじん)のDJ産土は、見返りを求めない純粋な愛として妹の花梨に音楽を聞かせますが、その最新”のメンバーが誘拐された時にサポートを申し出た企業は、組織としての利害を踏まえた戦略に基づいて動いています。

古川:あえて対比を作ったわけではないのですが、大事なところだと思いますね。

企業は「応援するから」「好きだから」といって個人やチームにお金を出すわけですが、もちろんそれを言葉通りに捉えるだけではだめで、そこには企業としての目的があるはずですし、時には目的が何なのかわからないお金の出し方をすることもあります

援助を受ける側がそうした思惑をどう受け取るかというシビアなところと、何も見返りを求めずに「助けたいから助ける」という無償の行動の両方を書けたのはよかったと思います。

(後編に続く)

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