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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#49 眼の力

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 先日、ある女優さんを撮影した後で、彼女はこう言うのだった。

「カメラマンさんには全てを見透かされているような気になります。レンズを通して見つめあったりするし。」
「うん、確かにそうだね。見つめ合うよね。非日常的なくらいに。」
 

 この何気ない短い言葉の受け渡しのあとで、私は、そこにとても大切な気づきがあると感じた。これは見過ごせない、見つめ合うことについて、あとでゆっくり時間をとって考えた方がいい、と。
 前述の女優さんが言うように、カメラを手にする者と、撮られる者との間には、非日常的な時間が流れる。なにしろ、言葉を交わさずに見つめあっている時間がとても長いからだ。

 言葉を交わさず見つめあっている時間。

 これは、恋の始まりにしか起こらない稀な瞬間の重なりで、つまり一般的には、長く短い人生の中でも、瞬きのような短時間にしか経験出来ないことだ。あくまで一般的には、だけれど。
 撮影者と被写体との間に生まれる、恋人のような共犯者のような、特別な関係は、言うまでもなく、見つめ合うことから始まる。もう少し付け加えるなら、見つめ合い続けることから生まれる。
 このことは、いったい何を意味するのだろうか?
 アイコンタクト、という言葉があるくらい、人は目と目でコミュニケーションできる。元々言葉を持っていない頃から、人もコミュニケーションが取れていたはずだから、目と目での意思疎通は出来て当たり前だとも言える。
 だが、この目と目によるコミュニケーションを、案外、現代人は等閑にしてはないだろうか?
 自分のケースで考えてみると、会話中には相手の目を見て話しはしているが、ここでは目よりも、言葉の取捨選択や組み立てに意識のほとんどが費やされていて、視線は一応相手の目に置いてあるような感じである。もちろん、目に現れる相手の感情の起伏や平坦さに気づきはするが、言葉のやり取りに、置いていかれてしまうのがほとんどだ。

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 だが、前述の撮影時でのやり取りは、肝心なところでは、言葉が失せていることが多い。話しなんかしていられない、という状態になっているのだ。無論、話し続けながら撮り続ける撮影者も、特にそれを職業としている方には、結構多いかもしれない。だが、その場合は、視線の絡みが主役で、言葉はつなぎのような役割をしているのだろう、と思う。

 視線を合わせることによって生まれる感情や関係があることは、きっと撮影者と被写体ならずとも、日常において多くの人がすでに感じていることだと思う。「目が語る」「目は口ほどにものを言う」という表現を持ち出すまでもなく。
 また、昔の人や、ある未開の民族は、写真を撮られると魂を抜かれてしまうと信じていて、それは目が魂の入り口になっているという実感から来ているのだろう。この感じは、なんとなく私にもわかる。写真を撮られる時の被支配感、というのは相性が悪いと不快感に直結することからも、おそらくきっと私たちは撮られるたびに本当に自分の一部が持ち去られているのだと思う。いや、ほんとうに。

 で、ここからが本題なのだが、魂を抜かれる云々というのがある一方で、写真を撮り、撮られる関係で、互いに癒されることも時にはある。美しい女優さんに撮影者が癒されるというのは分かりやすいが、美しい女優さんの方が、撮影者に癒されることもある。それは撮影者が優しい人だったら想像しやすいが、厳しい撮影者にすら癒される女優がいるのだから、単純な構造ではない。おそらく撮影を通して、つまり目と目を合わせて交感できた時に、癒しが生まれるのだと考えられる。
 写真において、私は、自他共に認める淡々と撮る派で、額に汗をかいたり、声や感情が昂ぶることもほとんどなく、いつの間にか離陸と着陸を終えている感じだ。それでも、目と目を合わせて、しっかりと魂と魂が結びついた時にのみ、いい写真が生まれるのを数多く経験している。
 目からは、間違いなく何かが出ている。何がそこを通って出入りしている。それはいったい何だろう。ある種の情報に違いないが、それを何と呼べばいいのだろう。

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 この原稿の冒頭で触れたある女優さんは、見透かされると言った。「見透かされる」、その言葉には、若干のネガティヴな感じがしないでもない。隠しておいた感情を見透かされた、というような、撮影者の不躾を感じる。不意を突かれれば、不快にもなるところを、癒しへと転化させるのは、交感が成立した時なのだろう。隠しておいた本当の私を見せることが出来た、そして理解してもらえた、という一瞬の実感が、撮影者と被写体を特別な関係へと導いているのに違いない。

 この素晴らしいコミュニケーションを、真似ることは可能だと思う。
 たとえ、二人の間にカメラがなくても、交わす視線を大切にすることで、撮影者と被写体との間に時に芽生える幸福な関係を発生させることは、可能だと思う。
 相手をしっかりと見ること。まずは、そこから始まるのではないだろうか。そのしっかりの中に、相手への興味、理解したいという想いを込めれば、それは必ず伝わるし、そういう対象として見られていることに、相手も悪い気はしないと思う。もし、それが異性間であっても、性的な邪気がなければ大丈夫だ。異性として意識することはあっていい、ただ邪な感情はすぐにばれるので、そういう気がその時の自分にあると感じるならば、逆に視線の通路をオープンにせずに、取り敢えず視線が合っている程度にすべきだろう。
 視線を大切にすること。そこから生まれる交感によって、双方が癒されるのは素晴らしいことだ。これは本来ごく普通のことなのだと思うが、オンオフを問わず、直に会わずとも文面だけのやり取りで済んでしまうことの多い昨今、視線の大切さが忘れられがちなので、今回は、あえて触れようとしてみた。

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そう言う私も、生活地である沖縄と、主な就労地である東京とのやり取りは、メールを使うことがほとんどだ。その次に電話なのだが、こちらは全体の1割というのが実感だ。つまり視線を合わせてのコミュニケーションが薄くなっている。互いに癒し合えば、理解も深まり、いろいろ滞りなく流れるのだが、実際は会わずに済むなら効率的で、これからもこの感じは、戻らないだろう。そのせいか、仕事での撮影時は、視線欲が濃度たっぷりで出ているのかもしれない。いや、ほんとうに。
 なんとなく加齢臭的なひつこさが連想されるので、さっぱりと行きたいものだ。

 再び、本筋に戻すが、視線を合わせることで、癒し合うことは可能だ。
 その時点での最も曇りなき眼と心で、相手を見つめ、理解しようと望めば、それは簡単に叶う。仕事上の一期一会であれ、プライベートでの一期一会であれ、それらを疎かにせずに、相手を大切に扱うことで、自分も大切に扱ってもらえる。作り笑顔などなくていいし、社交辞令を重ねることも無しでいいので、上に立とうとせず、イニシアチブを取ろうとせずに、ただ誠意を持って、相手を見つめて話す。これだけのことで、相手との間の雰囲気がかなり柔らかくなる。
 とはいえ、苦手な人には、どうも伏目がちになるのも当然だが、思い切って誠意を持って見つめてみると、案外その苦手の人の眼の中に、純粋さや素朴さや、かわいい何かさえ見つけられるかもしれない。
 癒しというのは、癒されたいと願う前に、何かを癒したいという気持ちになれた時に始まることもある。癒しは、良質のエネルギーの交換でもある。どこかに出発点、起点が必ずあって、それが自分の眼からだということもあるのだ。

 さあ、眼から優しいビームを出そう。

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#50」は2018年1月17日(水)アップ予定。

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