“リアリスト”に未来はあるか?

内田樹の研究室

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

“リアリスト”に未来はあるか?

入学の春を迎えた大阪の学校に重苦しい空気が漂っている。橋下徹大阪市長の意向で、教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例が施行されたことを受け、約13000人の教職員に職務命令が出され、厳密な確認が始まったからだ。

2012年04月04日『朝日新聞』

起立斉唱の職務命令に三回違反すれば免職できる規定もできた。
3月2日の府立和泉高校の卒業式では教頭が校長の命令で、教職員が歌っているかどうか口元を確認して、歌っていなかった教員一名を府教委に報告した。市長はこれを範として、監視を徹底することを市役所幹部や府教委に伝えた。
市長のロジックは「税金で身分保障されている公務員は業務命令を遵守すべきであり、いやなら辞職しろ」というものである。
国歌国旗問題については、これまでも繰り返し発言してきた。
私が統治システムにかかわることで主張しているのは、つねに同じことである。
「その政策は健全な公共心をもつ成熟した公民をつくりだすことに資するかどうか」
それだけである。
国歌国旗は端的に“国民国家に対するクレジット供与”の問題である。
これはひとりひとりの市民が自分の立場で熟慮して結論を得るべきことだと私は思っている。
国民国家は擬制である。
福沢諭吉はもっとはっきりと“私事”だと言った。
昔誰かが勝手にそういうものをつくったのである。
国境線をひいて、「こっちからこっちはおれの国だ。入ってくるな」というようなことを言い立て、国法を定め、国語をつくり、国旗をデザインし、国歌を作曲した。
どれもみな“つくりもの”である。
でも、この“つくりもの”には十分な必然性があった。
それがないより、あるほうが“公共の福利”が増し、住民たちにとって暮らしやすい社会ができるだろうという見通しに多くの人々が同意したからこそ、“そういうもの”をつくったのである。
国民国家は本質的に恣意的な構築物である。
だが、それがきちんと機能するためには、それがあたかも自然物であるかのように、天来のもの、神授のものであるかのように、ふるまってみせる必要がある。
“自作したもの”をあたかも遠い昔からそこにあった自然物でもあるかのように崇敬してみせることができるかどうか。
それが“できる”ということが市民的成熟のひとつの条件だと私は思っている。
国旗国歌に対して“適切にふるまう”ことができるのが成熟した国民国家成員の条件である。
ここには複雑な言葉が含まれている。
それは“適切な”という言葉である。
国民国家成員のシステムに対するふるまいかたの“適切性”は何を基準にして考量されるべきか。
私の答えは上に書いたとおりである。
そうすることがその人自身にとって、必至にして必須の“市民的成熟への階梯(かいてい)”であるならば、外形的にどのようなふるまいであっても、それは適切である。
私はそう考えている。
子どもは国民国家について反省的に思量するということがない。
だから、ぼんやりと国歌を歌い、国旗に敬礼する。
けれども、子どももある程度成熟してくれば、国民国家という制度が歴史的な構築物であり、本質的に暫定的な制度であるということを学ぶことになる。
そうなると、かつてふるさとの山河や草木のような“自然物”に向けたのと同じ素朴な感情を、そのまま国旗や国歌に対して持つことが出来なくなる。
でも、この屈託は市民的成熟にとって必須の過程なのである。
儀式で起立斉唱しない人々はこの“屈託”のうちにある。
それは成長の自然過程だと私は考えている。
国旗国歌に対する敬意を欠く公務員は、憲法に対する敬意を欠く政治家と同じようなしかたで“屈託”しているのである。
それは人間的な未成熟のあらわれであり、悪意や邪念のあらわれではないと私は思っている。
だから、私はいずれについても処罰を求めない。
「憲法に反対なら、公務員をやめろ」というようなことは言わない。
市民的未成熟は“教化”の対象ではあっても、“処罰”の対象ではないからである。
気長に待つしかない。
いずれ長く生きているうちに、世の中にはどこにも“完全な統治システム”は存在しないし、自然物のように合理的で調和的な社会システムは望んで得がたいことを知る。
そして、“ありものをどう使い回すか”というブリコラージュ方向に知恵を向けるようになる。
私たちに与えられた不可避の与件である、この“日本”という国民国家システムを適切に管理運営し、より暮らしやすい場にするために、自分は何をすればいいのか、それを考えるようになる。
“国民国家は擬制であり、私事である”ということをわきまえたうえで、なおかつ私たちにはさしあたりそれ以外の選択肢がない、さて、これをどのように気分のよいものにすべきか、とまずは手元足元の工夫から始める人のことを“成熟した市民”と呼ぶ。
これが標準的な“市民的成熟”の階梯(かいてい)である。
私が国旗国歌に対する業務命令や法的強制に原則的につねに反対してきたのは、それがこの健全な市民への成熟の行程の妨げになると思うからである。
“国民国家とは何か”についてひとりひとりが、自己責任において、思量することこそが国民国家成員にとっては不可避の義務である。
それは自分の代わりに他人に考えてもらうことではないし、他人に命令されることでもない。
国民国家に対する態度を自己責任で決定するものが国民である。
日本国憲法は“日本国民は”という主語から始まる。
それが日本の統治システムがいかなるものであり、それが国際社会においてどのような立場を占めることになるのかを宣言している。
もちろん、憲法もまた一つの擬制にすぎない。
GHQに集まったニューディーラーたちがワイマール憲法やソ連憲法や人権宣言を按分(あんぶん)して作文した“つくりもの”である。
憲法を制定した“日本国民”などというものは実体としてはどこにも存在しない。
けれども、擬制というのは、“そういうものがある”という話にしないと機能しない。
日本という国のあり方を決定する“国民”というものがある種の“集合的な叡智(えいち)”のごときものとして存在する、という話にしないと、国家的行動というものは一歩も前に進まないのである。
この憲法前文を書いたのが実際には何人かのアメリカ人であるという歴史的事実を知った上で、なお“日本国民は”という名乗りをなすような“集合的叡智(えいち)”が当為として存立しなければならないというふう考えることができるのが、成熟した国民である。
そのようなものは自然物として即自的に存在するわけではない。
それは私たちが、私たちのこれからの努力を通じて、遂行的に存在させるべきものなのである。
もし、「この憲法前文を書いたのが実際には何人かのアメリカ人であるという歴史的事実」というにとどまって、「だからこんなものはナンセンスだ」という“リアリスト”がいたら、彼は「戦争に勝った国の人間は敗戦国民にどのような無理難題も押しつけることができる」という命題を“現実的”だと思っていることになる。
けれども、そのときにこの“リアリスト”もまた“戦争に勝ったアメリカ人たち”にはある種の“集合的な意思”があると思っているし、“敗戦国民”には全員に共通する“負け犬的メンタリティ-”が内在していると思っている。
彼もまた“国民”という集合的な意思や感情が存在するということは無批判に前提しているのである。
この“リアリスト”が未成熟なのは、“欲望や支配欲や卑屈や弱さ”は集合的性格でありうるが“できるだけフェアで住みやすい統治システムをめざす意思”が集合的に共有されるということは「ありえない」と信じているからである。
“色と欲”だけがリアルであり、“きれいごと”はフェイクだというのは、その人のパーソナルな経験が生み出した私見であり、一般性を要求できるようなものではない。
けれども、多くの自称“リアリスト”はこの水準から出ることがない。
大阪で今行われていることは、この“リアリスト”のふるまいに似ている。
“リアリスト”の目には学校は“自己利益を追求するだけで、特権にあぐらをかいている公務員たちの巣窟”に見える。
欲望や卑屈さが教職員たち全員を共軛(きょうやく)する集合的性格としてありうるということを信じているこの人々は、「教育的理想の実現をめざす」という集合的性格が教職員たちに共通して存在するということは信じない。
政治の教育への介入を拒否するのは“既得権益を死守する”のためのふるまいであるということは信じるが、それが“教育的理想を死守する”ためのふるまいである可能性は勘定に入れない。
人間が醜悪で卑劣な動機から行動することは信じるが、何かしら崇高で非利己的な目的のために行動することは信じない。
繰り返し言うが、それは特殊な個人史的経験がもたらした私見である。ある範囲においては、妥当する事例を見出すことができるだろう。だが、一般性を要求できる水準の知見ではない。
そのような“リアリズム”に導かれて市民的成熟が達成することはないし、集合的叡智(えいち)が機能することもない。
「私欲と我執だけが信じられる唯一の現実だ」という人間理解にい着いた“リアリスト”がそこから解放されることは困難である。
そして、そのような“リアリスト”は“すでに存在する現実”について微細な報告をなすことはできるけれど、“これから存在させるべき現実”について、手触りのはっきりした、ひろびろとしたイメージを語ることができない。
集団的な統合を果たすためには、“人間は非利己的で、崇高な目的をめざして行動するときに、もっともそのパフォーマンスを高める”という人間性についての“確信”が必要なのだが、“リアリスト”の観察した事例のうちには、そのような人間観を担保してくれる経験がどこにも存在しないからである。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

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