死と対峙する物語〜長嶋有『もう生まれたくない』

死と対峙する物語〜長嶋有『もう生まれたくない』

 私がこの本を読もうと思ったのは、長嶋有という作家にこれまでも注目していたためでもあるし、ブルボン小林という別名義からも予想しうるようにどちらかというとユーモラスさが印象的な著者が「死」というものに斬り込んだ作品らしいからという理由もあった。

 本書において触れられる「死」は、大半が登場人物たちとは無関係の有名人や一般人のものである。痛ましいとは思うものの、身内が逝ったときのように身を切られるほどの悲しみというわけでもない、微妙な距離感。亡くなった人が有名かそうでないか、好感度が高かったかそうでないか、無名の人であれば死因が特殊なものかそうでないか、といった要因によってショックの大きさは変わってくるけれども、悲しみの大小はまた別の話であるということになろうか。まあ、実際のところそれは当然といえば当然の話で、すべての人の死を平等に悼むことはよほどの博愛主義者でもない限り不可能であろう。それでもこの小説でも触れられている人々の訃報に対しては、(ジョン・レノンやダイアナ妃の熱狂的な信者などは別として)大多数の人々が「気の毒だ」や「早すぎる」や「もっと生きたかっただろうに」とライトな感慨ではあるにせよ心を痛めたに違いない。死にゆく者を追悼する気持ちが備わっていることは、人間も捨てたものではないという心強さへとつながるような気がする(”死んだ人のことを悪く言ってはいけない”というもの言いも、根っことしては同じかも)。

 一方、本書においては、夫に死なれたある登場人物の悲しみも激しいものとしては描かれていない。喪主であった彼女は夫の葬儀で、「(彼が一番)驚いていると思う」ということのみを語った。参列者たちはその短いあいさつに対して「悲しみのあまり言葉にならなかったのだろう」と捉えたが、彼女はほんとうにそれ「しか」思わなかったのだ。悲しみよりも驚きが先に来るのは、決して不思議ではない心の動きだと思う。実は私自身も父が亡くなったときに体験したことだ。その直前の健康診断でも特に不調はないと言い渡された父が、くも膜下出血で突然亡くなったのは14年前。もう動かなくなった父の姿を見たときに衝撃は感じたが、ほんとうの意味で悲しみを実感したのは父の死後しばらくして、お孫さんを連れているおじいさんを自分が無意識に目で追っていることに気づいたときだった。人が亡くなるということに対して、誰もが即座に激流のような悲しみに見舞われるわけではない。

 人の死に際し、本書の登場人物たちもやはりさまざまな表情を見せる。最も主要な人物といったら物語の始まりと終わりにいる大学職員の首藤春菜や彼女の友人たちである違う部の職員・小波美里や清掃担当の根津神子たちになるのかと思うが、他にも多くのキャラクターの視点で物語が進む。それぞれが死に対して抱く印象の多様性は、現実の世界における各人の死への向き合い方の縮図のようでもある。その人が若いか歳をとっているか(一般的な寿命がまだ先なのか近づいているか)、身近な人の死を経験しているかどうか(死というものを目の当たりにしたことがあるか否か)、などによっても感じ方はまったく違ってくるだろう(基本的に本書のキャラたちには、他者が亡くなったことは深刻になりすぎない程度に受けとめられているが)。とはいえ長嶋作品となれば、いかなる死もそこはかとないユーモアからは逃れられない。おもしろいと言ったら不謹慎なのだが、声優の内海賢二さんが亡くなったあたりの話は思わず笑ってしまうようなおかしみと亡くなった人の偉大さを惜しむ物悲しさが共存していた(しかし、内海賢二の名前を知っている人間の割合がずいぶん高めに設定されてないか? その辺のさじ加減もまた長嶋有的だが)。

 もうひとつ、長嶋作品で見逃せないのは東日本大震災との向き合い方だ。2013年に発売された『問いのない答え』(文春文庫)で著者は、声高に主張しているわけではないのに、震災によって失われたものの大きさとそれでも残された者たちが生きて行くことの尊さを十二分に描き出した。そして『もう生まれたくない』は、2011年7月に始まる物語。震災から4か月後。まだ地震や原発関連の恐怖からさめやらぬ時期だったと思うが、そこからさらに6年が過ぎた2017年の現在からみれば震災の記憶は確実に風化に向かっている。ほんとうに恥ずかしいことだが、最初のページの「震災以後続く節電措置で、建物内の蛍光灯の多くは抜き取られているが」という記述を読むまで、私は震災後のどこに行っても「薄暗い」と感じた心許なさを忘れかけていた。あのとき、信じられない数の人が亡くなった。そして私たちはあんなにも心を痛めた、それなのに、私は忘れそうになったのだ(死亡者の数が少なければ忘れていいということではもちろんない。東日本大震災に関しては、避けようのない地震や津波による災害ではあるが、人間がベストを尽くしていたらここまで被害が甚大になるのを食い止められたのではないかという後悔が胸を去らない)。いや、まだ何も終わってはいないのだと、これが長嶋有という作家の死というものとの対峙のしかたなのだと、改めて思い知らされた気がする。時間がたつにつれて関心が薄れていく世間を責めるでもなく、しかし決して忘れてはならないことだと、ユーモアやサプライズの中にしのばせながら著者は思い出させてくれている。死は誰にでも必ず訪れるものであり、明日にも起こり得ることなのだという事実から、私たちは逃れられないのだから。

(松井ゆかり)

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