藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#30 ベルリン
日頃から体調には気をつけていても崩すことはある。そういう時のリカバリー方法を自分なりに心得ている人は多いと思う。勝手知る付き合いの長い自分の体のこと、自分で治すコツをいくつか持っている人はセルフヒーラーでもある。私の場合、腹痛に対してはうつ伏せに寝て腹部に拳を当てる。拳に遠慮なく脱力した体重をかけ、痛い箇所を圧迫する。たいていの腹痛は五分も待たずにやわらいでいく。頭痛の場合は後頭部の首とのジョイント部分を指圧するようにマッサージする。これも良く効く。頭蓋骨を持ち上げるほどに強くじんわりと当てるのが心地よい。眼性の疲労ならば、鼻の上、眉の端下にあるツボを揉む。こんな具合に病院や薬局に行く前に、いくつかの小さなスキルを持っておくと心強い。特に旅行中の不調は心細く不安に陥りやすい。そんな時こそスキルというホームドクターの存在がありがたい。自分にもつい最近そういうケースがあった。場所はベルリンでのこと。その朝、目覚めると、疲労感と発熱感があり、腹部にも不快感があった。風邪にも似ていたが、それに輪をかけて強い疲労感があり、すぐに昨夜のメニューが思い浮かんだ。
ベルリン在住の友人の薦めでトルコ料理店に行き、薦められるままに羊の内臓のスープをいただいた。普段肉をほとんど食べないので、ちょっと強すぎるかなあと尻込みしたが、口にすると癖は強いが以外と美味しかったので、結局内臓も食べ、全て飲み干してしまった。
翌朝、私は鏡に映る疲弊した自分の顔を見つつ、腹に手をあてて、今更悔いたがもう遅かった。
それでも午前中の約束を果たすべく、地下鉄を乗り継いで動物園駅前にある待ち合わせ場所、ヘルムート・ニュートン写真美術館へとたどり着いた。
三十分も前に着いたので、十ユーロほどを払ってニュートンの展示を見ることにしたのだが、全身に力が入らず、搾りかすのようなていたらくぶりであった。ニュートンの力強い構図が、弱った体に追い討ちをかけるかのように私を見下ろして、浜に打ち上げられた漂流者の虚無を感じた。
私は展示を見ることを早々に諦めて、広大な建物の隅に慈悲のように配置されてあるソファに身を預けた。
うちのめされる、というのはこういうことを言うのだろう、などと感じつつ、ソファの柔らかさに安堵した。とはいえ、体調はまだまだ下降していくのは明らかだったし、約束の待ち合わせ時間は、にじり寄ってくるしで、小さな悪夢の始まりをせせら笑う余裕は残念ながらなかった。一階のブックストアで、ベルリン在住の若手写真家のFくんと合流すると、本当はランチを一緒にする予定だったが、事情を話して近くのカフェに甘んじた。Fくんは最も期待されている日本人新進写真家の一人に数えられていて、新作の構想やロンドンでの展示について語ってくれた。本来ならば、写真談義に花が咲き、昼間からドイツビールをがぶがぶ飲んで調子に乗る予定だったのだが、いかんともしがたく、小一時間後に席を立つはめになった。旧東ドイツエリアに住む彼とは、もっと話したかったし、彼の在住エリアを散策もしたかったのだけれど、もと来た地下鉄を逆に乗り継いでホテルに早々と戻る選択となった。具合が悪い時の最善の対処は、寝ることである。それにしてもあれほどの不調は近年稀であった。羊のスープをうらめしく思うのは仕方ないので展開しなかったが、不調の時は何かのせいにしたがるし、それが分かったからといって僅かな不毛な腹いせにしかならないのだが、ついつい気まで病んでしまう。病は気からとは言うが、そればかりでもない。その時は、病は羊からであった。眠れない時に羊を数えたことは幼少の頃の思い出だが、あんなことは二度としないだろう、と思うほどに、羊がうっとうしかった。世界中から半日ほど羊が消えてくれたらと、願いもするほどに。
とまあ、これらは紙の上の戯れに過ぎないが、あの時の自分は本当に参っていた。
ベルリンのホテル事情は結構良い。同じ値段でもパリの三倍の広さが与えられるし、設備も新しい。ちょうど三回の角部屋を得ていたのだが、その眺めと採光の良ささえも恨めしかった。
病は気をも病ませる。悪い循環の中から抜け出すには、この負のループの切断が大切なのだが、きっかけがない。海外ひとり、というのは治るきっかけも自力で作らなければいけない。うっとおしいほど心配してくれる家人もいないのだから。
とまあ、これは紙の上の戯れに過ぎず、実際は苦痛こそあれ、体がすでにベッドにあることで楽観していた。ベッドに居させすれば、あとは治る軌道に乗せるだけなのだから。どんなものにでも底というのがある。体の不調然り。底に向かっている時には、じたばたせずに、ただ身を任すしかない。無駄な抵抗をしないということだ。あがきは事態をこじらせるだけなので、坂口安吾のごとく、「堕ちよ、堕ちよ」でいいのだ。できるなら、堕ちていく様を鑑賞するほどの余裕があるといい。ああ、自分はこういう風に堕ちていくのかと、その様はなかなかの見物となる。そして底に到着したのを感じたら、そこからが関与の始まりである。堕ちる様を観察鑑賞していれば、コツンと体調の底に辿りつく音がする。コツンでもドタンでもフワリでも構わず、無論音などなくても良いのだが、ともかく底を感じたら、ではそろそろ治りましょうか、と相成る。体というのは、本来治りたがる習性がある。治りたいのだから、それを邪魔してはいけない。正しい位置というのは体が知っているので、余計な薬で話をこじれさせる必要はない。私の場合は呼吸とイメージを使うことで、日常的な不調なら十分足りる。呼吸といっても難しいことをするわけではない。深呼吸を繰り返すだけだ。深く吐いて、深く吸う。その繰り返しだ。
意識としては、吐く方をメインする。呼吸という言葉自体が呼気、吸気の順を示していて、まず吐き切ったあとに、吸うがくる。深呼吸というと、まず大きく吸い込んでしまいがちだが、実は吐くことが大切だ。
人の一生を、最初の呼気と最後の呼気の間のあれこれに過ぎないと言った人がいるが、母体から出て最初に吐き、そして死ぬ時も吐き切って息絶えるというわけだ。
吐くことで、まず老廃物を出し切り、そうしてから新鮮な美しいエネルギーを取り込むように吸う。不要なものを捨てる、必要なものを取り込む。そのループ。
生命活動を維持するためには、呼吸のクオリティを高めることが大切だ。もっともベーシックな箇所へのこだわりが、他のクオリティを高めることになるのは、ファッションや美容にも言えることだと思う。
普通の深呼吸でもいいのだが、さらに一歩進むなら、吐く時は、肺を収縮させた後、腹部もへこませるように二段階の動作を踏んで丁寧にやるといい。吸う時は逆に腹部をいっぱいまで膨らませる。これによって横隔膜が下がる。その次に肺へと空気を吸い込む。あらかじめ横隔膜が下がっているのでスムーズにいくことがわかるだろう。呼吸はだいたいこんな感じでいい。とてもシンプルだ。悪いものを出し切り、良いものを十分に入れる。これをできるだけ繰り返す。慣れないうちは無駄に力が入ったりするので、休みながらやるといい。
次にイメージ作りが続く。
これは体が絶好調で、心が晴れ渡っている時の自分をまず思い出す。意外とこれが難しい。不調の時は心の柔軟性も落ちるし、悲観的なトーンに支配されやすい。だが、ここは頑張り所だ。自分の笑顔を思い描くのもいい。快活な笑顔で過ごしている自分は、調和のとれた良い状態なはずだ。そのようにしてうまくイメージが作れたら、そこを戻るべきゴールとしてセットする。これから快活な笑顔で過ごしている自分へと帰るのだと、目標を作るのだ。病気というのは言わば、心身が迷子になっている状態だ。今は苦痛の中にいるのだが、それを認めつつ、本来の自分へと帰ろうと促してあげる。目的地もないままに膝を抱えてその場に坐りこむような状態から、帰ろうと促すのだ。脱力しつつの深呼吸とイメージ。これだけで回復の速度が飛躍的に高まる。なんとか剤のお世話になる前に是非試していただきたい。慣れてしまうと、戻る場所がわかっているので、それほど慌てはしない。家を離れて過ごす旅行期間などはその担保がとても心強い。ベルリンでは丸一日寝ただけで回復し、翌日はちょうど季節のホワイトアスパラガスを友人宅でたっぷりといただいた。いったい何本食べたかわからないくらいに。あちらではホワイトソースで食べるのが主流だが、ただ焼いただけのものに塩を振っていただいた。その美味しさを例える言葉をあいにく自分は持っていない。
旬なもの、とくにアスパラのように天へと突き出して伸びる植物には、正す力が強いように思えた。その土地での旬をいただくのは、それ自体ヒーリングと言えるのだと実感した。
さて、新鮮かどうかの問題は別として、羊の肉にも旬というのがあるのだろうか。きっとあるのだろうな。
(つづく)
※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#31」は2016年7月4日(月)アップ予定。
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