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【現代医学】すごく腹が減っているときに食べると死ぬ危険アリ / 戦国時代に「兵糧攻め」で大量の餓死者

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こんにちは! 歴史好き女医の馬渕まりです。専門は代謝内科。脂質異常症や糖尿病などの生活習慣病が得意分野です。

「めちゃくちゃ空腹のとき、一気に食べ物を胃にいれると死んじゃうって話、本当ですか?」

・三木城や鳥取城の「悲劇」が完全スルー
大河ドラマ『真田丸』は昌幸の衣装もカッコイイなぁ……なんてテレビ画面を眺めていたら編集サンからこんな質問をされました。どうやら一昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で三木城や鳥取城の「悲劇」が完全スルーされたことを思い出し、この2つの合戦で、実は「大量の餓死者が出た地獄」を今更ながら回想しているもようです。

・兵糧攻めを徹底した城
飢餓ネタってどうなのかしら……と逡巡しつつも、実は栄養の話は私の専門分野だったりして。決めた。今回のテーマは「兵糧攻め」にしましょう! 上記で触れましたように「三木城」と「鳥取城」は、豊臣秀吉&黒田官兵衛のコンビが『兵糧攻め』を徹底した城で、その悲劇は現代まで伝えられているほどです。もしも映像で描けば、かなりキッツいものになるでしょう。まずは三木城の攻防から振り返ってみますね。

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・東播磨一帯に強い影響力
三木合戦は1578年(天正6年)3月から1580年(天正8年)1月にかけて行われた「織田家vs別所家」の戦いで、現在の兵庫県である播磨国で起こったものです。元々この地は守護・赤松氏の支配領域でした。が、足利六代将軍・義教の暗殺事件後に同氏も没落、部下や家臣が群雄割拠する地となり、その中でも赤松一族の別所家は東播磨一帯に強い影響力を有するようになりました。

・別所家も一時は織田方へなびいた
この場所は織田家にとって非常に重要でした。大坂の石山本願寺を攻略し、さらに西へ進んで毛利を潰したい思惑があったからです。そのためにはまず別所さんの支配地を押さえなければ先へ進めずません。当然ながらノブナガさんに目を付けられ、実際は秀吉によって「織田家へ付けば領地保証しまっせ!」と調略されると、別所家も一時は織田方へなびいたのでした。

・普段より多くの兵糧が必要
ところが、です。結局、当主の別所長治が叔父の勧めで毛利方になびいてしまい、地元の三木氏や宇野氏がこれに同調すると、周辺地帯の勢力図が一変してしまうのです。長治は三木城に籠城して、毛利の援軍を待つこととしました。三木城に籠城した人数は推定7,500人。兵士だけではなく、家族や浄土真宗の門徒も含まれる諸籠り(もろごもり)です。当然ながら普段より多くの兵糧が必要となりますので、その補給は、毛利氏の船で瀬戸内海から陸揚げし、周辺の支城と連携することで運び込んでおりました。

・三木城は補給が困難な状態
これに対して秀吉は、徹底した支城攻略で臨みます。敵のネットワークを潰しまくり、『米の通り道』を塞いだのです。途中、上月城の攻防や荒木村重の裏切りによるドタバタなどもありましたが、最終的には狙い通りにコトが進み、三木城は補給が困難な状態に……。

・自らの軍は被害をこうむることなく敵を飢えさせブッコロス!
そんな秀吉&官兵衛の狙いはドンピシャ当たり、三木城内で千人単位の餓死者が出ると、当主の別所長治もついに降伏。自らの切腹と引き換えに兵士・領民の助命を保証し、1年10ヶ月に及ぶ籠城戦は幕を閉じました。この一戦、『三木の干し殺し』と呼ばれております。

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・高値で米を買い占め城内の兵糧米さえ買ったという
兵糧攻めにより千人規模の餓死者が出た三木城。その様相はさぞかし地獄絵図だったでしょうが、それを上回るキツさと伝わっているのが鳥取城です。12歳以下のお子様&グロ苦手な方はページを飛ばしちゃってください。『三木の干殺し』から半年後の1580年(天正8年)6月、2万の大軍を率いた秀吉は鳥取城を包囲。城主の山名豊国は3ヶ月間籠城した後、織田に臣従しました。ここで終わっていればアッサリな話でしたが、むろん続きがあります。

・若狭から商船団を派遣
徹底抗戦派だった家老たちが城主の豊国を追い出し、毛利側に付いたのです。1581年(天正9年)3月、鳥取城は新城主として毛利方の吉川経家を迎えます。これを機に、秀吉は再び兵糧攻めを開始。そしてそのヤリ方は、三木城に比べてさらに徹底したものでした。
まず、若狭から商船団を派遣し、米を高値で買い占めます。一説ではこれにつられて鳥取城の兵糧米すら売られたという話もあります。

・20日分の兵糧は瞬く間に枯渇
同時に秀吉は、周囲の村民をわざと城へ逃げ込ませました。もう説明は不要ですよね。食い扶持を増やし、一刻でも早く飢えさせようとしたのです。実際、元々1500人の兵が籠っていたところに約2000人の農民が城に逃げ込んだと言われており、20日分の兵糧は瞬く間に枯渇。間もなく飢餓地獄が始まり、『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されております。

・ついに食べるものがなくなる!!
包囲から4ヶ月後の10月頃には餓死者が出始め、最初こそ死者を埋葬していたものの、牛馬、雑草すら食べるものがなくなり、ついには……。まだ息のあるうちからナタや小刀でバラバラにして……。

・頭の部分が美味しい
鳥取城には、日本史上、非常に稀である“人肉食”の記録が残っております。飢えから逃れたい一心で柵をよじ登ると秀吉から容赦のない鉄砲が射かけられ、傷つき倒れていく者が多数おりました。そこに人々が群がるのです。まだ息のあるうちから、家畜を捌くが如くナタや小刀でバラバラにして食べた――そんな記録が残っているのです。特に頭の部分が美味しいらしく取り合いになったそうで……これについては後述します。

・鳥取の渇え殺し
竹中重門(半兵衛の子)が記した『豊鑑』には、このときの様子を「糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども,それも程なく尽きぬれば餓死し,人の宍を食合へり…子は親を食し、弟は兄を食し杯しける」と書かれております。そんな惨状を見かねたのでしょう。吉川経家が自らの命と引き換えに城兵・村民の助命を確約し、鳥取城攻めは収束したのでした。『三木の干し殺し』に対し、こちらの一戦は『鳥取の渇え殺し』と称されております。

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