「スリーデイズ坊主はもったいない」ルー大柴が15年以上の下積みを乗り切れた理由とは?

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就職しても雑用のような仕事を任される“下積み期間”に堪え兼ねて、すぐに仕事を辞めてしまう若者の存在が議論を呼ぶことがある昨今。一方芸能界には、30代後半までに及ぶ長い下積み期間を経てブレイクした経験を持つ人物がいます。

それが、「トゥギャザーしようぜ!」で一世を風靡し、日本語と英語を巧みに組み合わせた“ルー語”で注目を集めるルー大柴さん。 18歳でのヨーロッパ放浪の旅から、スターの付き人時代に経験した雑用、芸能活動の傍ら行ったティッシュ配りのアルバイトなど……”エンターテインメントの世界で一花咲かせたい”ともがき続けた半生を、ルー大柴さんに振り返ってもらいました。

いろんな国の人とトゥギャザーしてみたかった

—若い頃に、ヨーロッパを旅されていたそうですね。

ええ。高校を卒業してすぐ、18歳から19歳にかけて、ヨーロッパを旅していました。 僕は幼稚園の頃に学芸会で拍手をもらったときから、「人を喜ばせることができるエンターテインメントの世界で生きていきたい」ということしか、シンクして(考えて)いなかった。それなのに、印刷屋の長男だったので、「跡取りになれ」って言われるのが、嫌で嫌で仕方がなかったんですよね。

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それと、洋画を観て外国に興味を持っていたので、「俺はジャパンみたいなスモールアイランドにいるのは嫌だ!」っていう思いもあって、親を説得してヒッピー旅行に出たんです。外国人の人とトゥギャザーしたくて、ヒッチハイクで放浪していました。1970年代初めのことですね。

—大学に行きながら、長期休みや卒業旅行で海外を旅するという選択もできたのではと思いますが、大学に行くことは考えませんでしたか?

家族が揉めていたので、当時はとにかく「日本を出たい、逃れたい、一人になりたい、遠くへ行きたい」という思いが強くて。今思えば、大学を出てゆっくりシンクして(考えて)から行動しても良かったとも思うんだけど、その頃は「22歳~23歳くらいには役者として成功したい」と思っていましたからね。

家がプアー(貧乏)だったわけでもないのに、そういうフロンティア精神みたいなものは幼い頃から持っていました。

—ヨーロッパではどこへ行かれたのですか?

まずはイギリスに行って3ヶ月間英会話教室に通って。「王立の演劇学校を受験できたらいいな」と思っていたんだけど、挫折したので他の国へ行って、いろんな国の人とトゥギャザーしてみようと。イギリスからオランダに渡り、スカンジナビアの方から北欧を周って、フィンランドからドイツへ。そこからまたオランダに行って、ベルギー、フランスへ行きました。南欧は新婚旅行にとっておこうと思って……結局、ワイフと行ったのはハワイでしたけどね(笑)

まずしゃべれ、行動しろ。すべては貴重なエクスペリエンス

—旅のなかで、特に思い出に残っていることはありますか?

すごいエクスペリエンス(経験)がメニー(たくさん)ありましたね。ヒッピーだったので、寝袋で野宿もしたし、何も知らないところで家に泊めてもらったこともあるし、自分でアクセサリーを作って露天商もしましたね。

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昔はロッテルダムに露天商が集まる広場があって、場所代を払うと店を出せる。ランチのときには隣の人から大きなペットボトルのソーダ水を分けてもらったり、誰かが出してきたフランスパンをかじったり。みんなで食べ物を分け合って、楽しかったですよ。

—お金に不自由していたわけでもないのに、どうして露天商をしようと?

ストックホルムでユースホステルに泊まっているときに知り合ったフランス人から、馬の蹄鉄に使う太めの釘で作るアクセサリーの作り方を教えてもらったんです。「これを売ってみるのもおもしろいエクスペリエンスだな」と思ってね。

そのときは、「すべて貴重なエクスペリエンスだ」と思っていましたから。絶対いつかビッグになって、誰かに「若い時はこんなことをしてたんです」と話せる日が来ると思い描いていたんです。ちょうど今日のインタビューみたいにね。

—貴重なエクスペリエンスといえば……旅先で恋もしましたか?

ええ。ユースホステルにいたときに、ディスコへ北欧の美人を探しに行ったんですよ。すると3人組の女の子がいて、僕は真ん中の子がすごくかわいいなと思ったんだけど、ディスコなのにその子だけ踊っていなかった。僕は「男性を相手にしない人なのかな?」と思いました。

すると、ボーイさんが「あと2曲ですよ」と言って、チークタイムになったんです。そしたら、踊り場にいた人たちが蜘蛛の子を散らすように、みんないなくなって。 僕は「チャンスだ!」と思って、そのかわいい子に声をかけようとしました。

でも、一緒にいた日本人の先輩が「無理だからやめとけ」って止めるわけですよ。「なんで? そんなのやってみなくちゃわかんないじゃない!」と思った僕は、気にせず彼女のところへ行って「Shall we dance with me?(一緒に踊らない?)」と言ったら、「Yes, off course.(ええ、もちろん)」と応えてくれました。

他に誰もいない踊り場で、大勢の人に囲まれながら2人でダンスして。周りからは「あの2人、何だ?」っていう驚きの眼差しでルックされたのを覚えていますね。

—まるで映画のワンシーンのような経験ですね……。旅での経験は、その後の仕事に活かされていますか?

そうですね。僕がエクスペリエンスから学んだのは、物怖じせず「まずしゃべれ、行動しろ」ということです。そこには確かに怖さもあるけど、“良いことか・悪いことか”、“やるべきか・やめるべきか”、自分で感じられるじゃないですか。それがベリーインポータントじゃないのかな、と思うわけですよ。

スリーデイズ坊主はもったいないじゃない

—ヨーロッパから帰国した後、俳優の三橋達也さんのところで付き人をされたんですよね。

はい。日本に帰ってきてから1年半くらい通った演劇学校を卒業したときに、先生から「役者で売れるために一番手っ取り早いのは、スターの付き人になることだ」って言われて。コネもできるし、芸能界の基本を学べるから、ってね。ちょうどそのとき、三橋達也さんが付き人を探しているから、「会ってみないか?」と紹介されたんです。

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それで三橋さんとお会いしたのですが、最初は口も聞いてもらえませんでしたよ。向こうも僕のことを試していたんでしょう。三橋さんはわたしの父と同じくらいの年齢で、大正生まれの人だったから、気難しくてね。

三橋さんのタバコに火をつけたり、コーヒーを淹れて運んだり。21歳くらいの一番遊びたい時期なのに、一日中、三橋さんの仕事にくっついて行って、フリータイムもなかった。正直、「あぁ、めんどくさいな」と思いましたよ。“スリーデイズ坊主”で終わっちゃおうかなという気持ちもあったんだけど、気が付いたら付き人の中で歴代1位の、2年半もの期間やっていました。

—いわゆる雑用のような仕事ですよね。仕事はつらくはなかったですか?

たしかに、僕は「22歳~23歳くらいまでにビッグになりたい」という夢を持っているのに、お手伝いさんみたいなことをさせられて、「なんで俺がこんなことしなきゃいけないんだ!」って思いましたね。

仕事の間だけならまだしも、休みの日にまで三橋さんの趣味だったボートに付き合わされて、三浦半島のヨットハーバーまで呼び出されて、船を磨かされたこともあったしね。

撮影の現場で「おい、火どこにあんだよ!」とか偉そうに言われると、こっちは恥をかかされるじゃないですか。だから「ようし、わかった。そんな風に言わせないように、次からは『しつこい!』って言われるくらいに食いついてやる!」と思いながらやってました。

すると次第に、何も言われなくても全部先回りして、パッパッパッと動けるようになりました。三橋さんもだんだんハートを開いてくれて、自分の息子みたいに「とおる、とおる(ルー大柴さんの本名)」と呼んで、可愛がってくれましたよ。

—つらくても、すぐにやめなかったんですね。

「なにくそ!」っていう思いですね。だって、そこでやめるのは、もったいないじゃない。付き人をしていると、だんだん礼儀やしきたりがわかってくるようになるし、「俺がフェイマス(有名)になったら、絶対こういうことはしないぞ」と思うこともある。それに、「三橋さんのクレバーなところは、盗んで自分のものにしてやる」という思いもありましたから。

「なんで自分がこんな仕事を」と最初は思いましたけど、僕は雑用のような仕事からも学べることを一通り学んでから、「やめさせてください」と伝えました。やることをやり抜く前にやめてしまったら、学べることも学べない。もったいないですよね。

海のように広かった夢がしぼんで、針の穴みたいに小さくなってくるんですよ

—その後、勝新太郎さんが主催する演劇学校である「勝アカデミー」の一期生になられたんですよね?

そうです。 勝アカデミーに入る前の話ですが、六本木でボーイのアルバイトをしながら、年に3~4本くらい、セリフがちょっとだけある役をもらって、刑事ものや青春ものの舞台やドラマに出ていました。

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10代の頃は22、23歳でビッグになっているという夢があったのに、現実の自分は付き人で雑用のような仕事をして、エキストラに毛が生えたくらいの役を演じて……。そんな経験を重ねるうちに、海のごとく広がっていた夢が、だんだんしぼんで、針の穴みたいに小さくなってくるんですよね。当時、25歳~26歳くらい。今からシンクする(考える)とまだ“ひよっこ”なんだから、全然大丈夫なんだけど、そのときは「俺はもうダメだ」って焦ってきちゃって。

そんなある日、テレビをつけたら、「勝アカデミー」という演劇学校のオーディションがある、というニュースをやっていて。「これは最後のチャンスだ!」と思って応募しました。……僕はすぐ、「これが最後だ!」って思い込むんだけど(笑)

面接の日、審査員に錚々たる名優さんや、著名な監督さんが並んでいる前で、「何か好きなことをやってみろ」と言われた。僕はもう背水の陣で臨んでいたから、他の人がやらないことをやろうと思い、審査員の一人だった俳優の岸田森さんに向かって、「あんたにゃ、わかりゃしないんだろう!!!!」と叫んだんです。『狼たちの午後』っていう映画での、アル・パチーノの演技です。そのときは、緊張でいっぱいスウェット(汗)をかきましたよ。

—その演技が認められて、合格されたと。

ええ。合格した日のことは、郵便屋さんがポストに何かを入れた音まで覚えていますよ。「カタンッ……」てね。急いでポストに封筒を取りに行って、緊張しながら封筒を開けると、“合格”の文字があって、「やったー!」って。

担任が岸田森さんだったんだけど、岸田さんが僕のことを高く評価してくれたそうで、「僕は大柴が受験者のなかで一番いいと思った。お前は世に出ないとダメなんだよ」って言ってくれて。でもまぁ、そこからも大変だったんだけどね。岸田先生は、僕が「ルー大柴」になる前に亡くなっちゃったしなぁ。

テレビに出ながら、時間があればティッシュを配っていましたよ

—大変だったというと?

結局、27歳で結婚が決まったので、けじめをつけて役者の道は諦めて、食えるような仕事に就こうと思ったんですよ。……今になると、どうしてそんなすぐにけじめをつけたがるんだろうって思うけど。けじめをつけても、少し経ったらまた後ろ髪を引かれて、役者の道へ戻ろうとしちゃうんだから。ワイフは大変だったと思いますよ。

—奥様は専業主婦だったのですか?

ワイフは大学も出て広告代理店の経理をやっていたんですけど、長男が生まれることになって、仕事を辞めました。「あとはあなたに頼るしかないのよ」って言われて。お袋にも「女房や子供を泣かせるくらいなら、お前の夢なんて、やめちまえ。20代のあいだやってきて芽が出なかったんだから、もういいじゃないか」と泣かれましてね。返すワーズ(言葉)もありませんよ。

そこで目が覚めてからは、いろんなことをやりました。街中でティッシュを配ったり、火災報知器の点検をしたり。

でも夢って、追っている時はこっちに来てくれないんだけど、「もういいや」って居直っちゃうと、逆に夢がこっちを追いかけてくれるんですよね。だんだん深夜のお笑い番組に呼んでもらえるようになりました。

—それからはテレビ一本で?

いやいや、テレビに出ながらも時間があればティッシュを配っていましたよ。僕、ティッシュ配るの上手いんです。配っていると「あれ、ルー大柴じゃない?」とか言われるんだけど、帽子をかぶりながら続けていました。

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周りから「プライドがないのか?」って言われるのも、わかるよ。でも男として、とにかく女房や子供を路頭に迷わせるわけにはいかないじゃないですか。テレビの仕事なんて長く続かないと思っていましたから、変なプライドは捨てることにしたんです。

—そのときはもう役者の道は諦めきれていたのですか?

心のどこかにはあったんだろうけど、20代の頃のような大きなドリームはなかったですよ。諦めていました。

でもテレビの仕事が少しずつ増えていって、嬉しいなっていう気持ちもあったのは確かなんだけど。有名になれば自然と仕事は来るものだから、テレビではとにかく「俺がルー大柴だ!」とがむしゃらにやっていましたね。

いくら演技がうまくても、無名だったら仕事なんて、ないんですよ。この世界は売れるまでが大変なのでね。なかなかこの仕事で食べていくっていうのは、難しいですよ。

人生はマウンテンあり、バレーあり

—その後、30代半ばにバラエティータレントとしてブレイクされたんですよね。

僕はたまたま運が良かったのかもしれないね。夢をあきらめずに細々とでも続けることで、たまたまひとつのウェーブ(波)に乗れた。その後も40代でちょっとダメになったり、そういう流れみたいなのはいっぱいあるんだけど。

人生って、マウンテンありバレーあり(山あり谷あり)じゃない? よっぽど運が良い人やクレバーな人じゃなかったら、そんなに良いウェーブにばかり乗り続けられないと思いますよ。

特に僕は、人との巡り合わせが良かったんじゃないのかな。50歳になって、今のマネージャー兼事務所の代表もやってもらってるパーソンに出会うんです。彼と出会ってから「新しいルー大柴像を作っていこう」と言ってもらって、もう11年目。彼と二人スリー脚(二人三脚)で、50代は乗り切れた。

62歳になった今も、こうして若いジェネレーション(世代)から“ルーさん”と言ってもらえることが、僕は嬉しいのね。だって、我々の世代で芸能界をやめていった人はいっぱいいるだろうし、世に出られなかった人が大半ですから。ここにいられるということが、嬉しいですよ。

—夢をあきらめなければ、いつかチャンスが来るかもしれないと。

そうですね。僕は何度もあきらめようとしたけど、自分の心の中にある“人を楽しませたい”というファイアーは、ほんとに小さくなっても、かろうじて燃え続けていたんだよね。

どんな職業でも、学べるものはあると思うんです

—最近の若者の中には、下積みのような仕事に耐えられず、すぐに投げ出してしまう人がいることが話題になることがあります。それに対してはどのように思いますか?

たしかに今の若者は、「石の上にもスリーイヤーズ(3年)続かない」って言われることもあるけど、自分のファイアーを大切にして、もうちょっと辛抱してみることも必要だと思います。絶対に合わないと思うなら、早めにやめたほうがいいけど、仕事っていうのはどんな職業でも、学べるものがあると思うんですよ。

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僕も付き人時代は、夢と現実のギャップが大きすぎてつらかったけど、今になってみると、あの2年半が無意味だったとは全然思わない。勝さんが“無駄の中に宝がある”ってよく言ってたんだけど、なるほどなと思いますよね。

—最後に、ルーさんから今、下積み期間にいる若者にメッセージをお願いします。

「俺は絶対何か才能を持っているぞ」って言い聞かせて、自分で自分を奮い立たせてもらいたいですね。踏みとどまれるかどうかは、つらい時期でも自信を持ち続けることができるかどうかです。

どんな仕事もやめちゃったら意味がなくなっちゃうじゃない。もったいないですよ。若い頃の自分にも言えることだけど、もうちょっと焦らずに、自分を見つめて、闘志を持ち続けてもらいたいですね。

ルー大柴

1954年新宿に生まれる。日本語と英語をトゥギャザーした話術を使う独自のキャラクターで活躍。芸能活動のほか、2007年NHKみんなのうたに採用された「MOTTAINAI」をキッカケに、富士山麓の清掃や地域のゴミ拾いをするなど環境活動にも積極的に取り組む。趣味はドジョウやメダカの採集、水墨画。茶道・遠州流師範、山野美容芸術短期大学客員教授も務める。

WRITING:野本纏花 PHOTO:岩本良介

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