不安は自分の心がつくる。選んだ道を悔やむことに意味はない。

不安は自分の心がつくる。選んだ道を悔やむことに意味はない。

Photo by Moyan Brenn

こんにちは、はせ おやさいです。

女性に限った話ではありませんが「生き方の選択肢」というものがありますね。結婚するのかしないのか、子どもを持つのか持たないのか、家を買うのか買わないのか……など、生きていると、さまざまな分岐点に立つことがあると思います。そして一度選んでしまったら、選ばなかった道を進むことはできません。

でも、もし自分の選んだ道が間違いであったとしたら? 選ばなかった道のほうが幸せそうに見えたら……こんなとき、どう向き合えばいいのでしょうか? 今日はそんなことについて書きたいと思います。

妹からの一言で気付けたこと

20代の頃「働く」ということに盲目的に取り組んでいた時期がありました。仕事に対して真面目に取り組み始めたのが遅かったことと、当時、予定していた結婚を取りやめにしたことから、人生をリセットして自分が選ばなかった「仕事をがんばる」という生き方を試してみよう、と思っていたからです。

とはいえ、学歴もなく、新卒から作っていくべきキャリアもコネも何もなかったので、正直マイナスからのスタートでした。なんとか入れた会社で実績を積み、その実績を持って転職し、人脈を広げました。そして、だんだんとやれる仕事の量も年収も増えていって、達成感も得られつつありました。「なんとかこのまま自分のキャリアを築いていければ、もっと上にいけるかもしれない」その希望だけを頼りに、たくさん壁にぶつかり、よじ登り、不安や恐れを抱えながら、なんとか働き続けていた時期でした。

わたしには妹がいます。同じ両親から生まれ育ち、仲が良いのにも関わらず、わたしは都心で働く独身会社員、彼女は郊外に家をもつ専業主婦、という真逆の生き方をしています。しょっちゅう会うわけではありませんが、会うと長い時間いろんな話をします。

盲目的に働く時期を経て過労で身体を壊したせいもあり、一度「本気で働く」ことから少し距離を置こう、と考えを変え始めたことがありました。その頃、妹に「いったんバリバリ働くのは休んで、これからどうするか考えてみようと思う」と話したことがありました。そのときに彼女から言われた一言で、わたしの価値観は大きく揺らぎました。

バリバリ働いていた時期のことを話していたら、彼女から「正直いうと、あのときはお姉ちゃんのこと、嫌いだった」と言われたのです。

ショックでした。当時のわたしは毎日忙しく疲れてはいるものの、責任ある立場とやりがいのある仕事をしていて、それなりに稼げている自分を誇りに思っていたからです。でも、子供の頃から知っている妹から見れば、そんなことはどうでもよかった。会うたびにピリピリして、疲れていて顔色が悪く、いつも機嫌の悪い姉に見えていたようです。彼女曰く、当時のわたしに「仕事なんてただの生活の糧で、やりがいや達成感はとくに求めない。歯車としてちゃんと収まって、生きていけるだけのお金がもらえればいい」と言うと、強く批判され、そのことがすごく嫌だったというのです。

必死に働くことでしか、自分を肯定できなかった

ふり返ると、当時のわたしは「都心でバリバリ働く自分」にすがりつくように、アイデンティティを見出していたように思います。結婚をやめにしてしまって、専業主婦になるはずだった道を選ばなかった自分の選択は、もしかしたら誤りだったかもしれない、というのを認めるのが怖かったんですね。考え抜いて選んだ道が当時持つことのできた選択肢の中ではベストで、それを選ぶしかなかった。頭ではそう分かっていながらも、もし間違っていたら? 自分が「これだけは譲れない」と思って選んだものが間違いで、進んだ道が失敗だったとしたら? という恐怖が消えることはありませんでした。

決断してしまったことの取り返しのつかなさは想像するのも恐ろしく、ただひたすらに自分の選んだ道は間違っていない、これでいいんだ、と自己肯定することで自分を保っていました。そして、自己肯定をしたいと強く願うあまり、「自分が選ばなかった道」を選んだ人の生き方を認めるのがとても怖かった。認める恐怖と向き合えず、目を背けたいと思うあまりに誰かを攻撃してしまっていたんですね。

妹がそのことを数年の期間を置き、わたしに打ち明けてくれたことで深い反省が訪れました。自分の弱さ、ずるさが目の前に引きずりだされたようで恥ずかしく、その瞬間はカッとなって思わず「そんなことない」と否定しそうになりました。そのような自分の感情の動きは、まだどこかで自分とは違う生き方を認められず、恐れているということの、何よりの証しでした。また、その自分の心の動きに気付いたことで、当時のわたしが自分の選んだ道にどれだけ自信が持てず、強く恐れを感じていたのか、ということを改めて自覚できたのです。

選ばなかった選択肢も受け入れて生きよう

このときのことは、今でも思い出すと涙が出てきます。必死に働くことでしか自分の選んだ道を、自分自身を肯定できなかった自分の哀れさと、他者の生き方を否定しなければ立っていられなかった恐怖を思い出すからです。当時のわたしの幼さによって傷つけた人は、妹の他にもきっとたくさんいて、悔やんでも悔やみきれません。なんて自分は浅はかで、視野が狭かったのか。後悔、恥ずかしさ、惨めさ……さまざまな感情が去来し、今も大きく気持ちを揺さぶられます。

今、ふり返って思うのは「不安は自分の心が作る」ということです。

わたしを追い詰めていたのは他ならないわたしで、わたしを許さないのもまた、わたし自身でした。失敗したくない、正しく生きたい、間違えたくない。強くそう思うあまり、自分が間違えることすら受け入れられていなかったんですね。

でも、生き方に正解なんてなく、間違えた道もまた生き方であり、それはもう、どうしようもないことなんです。進んだ道を引き返すことができないなら、それを悔やむことに意味はありません。自分の人生を、自分自身を傷付けるだけ。だったら、失敗したことを認めて笑ってしまえばいい。失敗を認めることは怖くて恥ずかしいことかもしれないけれど、エイッと一歩踏み出してしまえば、とても心が軽くなりました。

あの頃のわたしも、意地や見栄を張らず、間違えたり失敗しても「ああ、また失敗した! 間違えちゃった!」と笑ってしまえばよかったんです。うらやましければ「いいなあ」と、素直に口にしてよかったんです。かっこ悪くても、弱くても、ずるくても、それでいい。かっこ悪さも含めて自分自身なんだし、失敗したことも経験の1つとして、ちゃんと抱えて生きていこうと思えるようになりました。

おわりに

このことに限らず、本当に数えきれないほどの失敗をしてきました。でも、その失敗は、今もわたしの支えになってくれています。ただし、その失敗もちゃんと自分の「もちもの」として受け入れられていれば、の話です。だから「失敗や間違いをなかったことにするのはやめよう」と思いました。自分の人生を生きられるのは自分自身しかいないのだから、何が起きても笑ってしまえばいい。そして、誰かが自分と同じ失敗をしたときには手を差し伸べて「わたしもそこから立ち上がれたから大丈夫だよ」と伝えることができれば、わたしの失敗も、過去のわたしも、おそらく成仏できるだろう。そんなふうに思うようになりました。

きっとこの先、わたしやあなたが生きていく道には、無数の「選ばなかった道」が現れると思います。そして自分が選んだ道が間違いだった、と思う瞬間が来ることもあるかもしれません。でも「してしまった失敗」も一緒に引き連れて、またまっすぐに歩いていれば、きっと明るくてすてきなどこかにたどり着けるはず。だからきっと、何があっても大丈夫。そんなふうに思うのです。
今日はそんな感じです。チャオ!
著者:はせおやさい (id:hase0831)

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会社員兼ブロガー。仕事はWeb業界のベンチャーをうろうろしています。

一般女性が仕事/家庭/個人のバランスを取るべく試行錯誤している生き様をブログ「インターネットの備忘録」に綴っています。

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