現実から逸れゆく船、海からやってくるゾッとする影ども
怪奇幻想小説の愛好家ならみなウィリアム・ホープ・ホジスンを知っている。荒俣宏氏が「20世紀初頭の最も重要なイギリス・ファンタジストの1人」(『世界幻想作家事典』)と称揚した作家である。古参のSF読者にとってもホジスンは馴染みが深い。〈SFマガジン〉1961年9月臨時増刊《怪奇・恐怖特集号》に「闇の声」が、同じく64年8月臨時増刊《大宇宙小説特集!》に「闇の囁き」が訳出され、72年にはハヤカワSF文庫から長篇『異次元を覗く家』が刊行された。「闇の声」を原作としてつくられた特撮映画が「マタンゴ」だ(本多猪四郎監督、63年)。「闇の囁き」は時間のゼンマイが弾けて世界が崩壊していく、その滅びの情景だけを綴った鮮烈な小品だが、じつは『異次元を覗く家』からの抜粋だ。海外のアンソロジー(おそらくオーガスト・ダーレス編のBeyond Time and Space)からの邦訳だろう。
私ごとになるが、はじめて『異次元を覗く家』を読んだときの衝撃は忘れられない。すでに壮大な宇宙SFはいくつも読んでいたが、それらは宇宙を舞台にした小説であって宇宙そのものを扱ってはいなかった。ホジスンが描いたのは、宇宙全体が疲弊し暗い終末へ滑りおちるさまである。
『異次元を覗く家』が《ボーダーランド三部作》のうちのひとつだと知り、ほかの二作の邦訳を待ち望んで40年余。それがついに叶った。本書『幽霊海賊』は原書刊行順でいえば三部作の最終作にあたるが、物語はまったく独立しているので、『異次元を覗く家』未読の読者も心配はいらない。のこる一冊『〈グレン・キャリグ号〉のボート』もすでに翻訳が進んでいるらしい。
前置きが長くなった。『幽霊海賊』はいっけん古典的な幽霊船の物語だ。語り手のジェソップはイギリスの船乗りで、サンフランシスコで商船モルツェストゥス号の乗組員となる。奇妙なことにそれまでの乗組員はひとりを除いてサンフランシスコで降りてしまい、ジェソップのまわりは新参ばかりだ。船には奇妙な噂があるが、その具体的な内容は伝わってこない。以前からいる唯一の乗組員ウィリアムズに問いただしても、返ってくるのは「この船には気味悪い影がたくさんありすぎるんだ」など曖昧な言葉ばかり。
航海がはじまるなりジェソップは思い知る。この船で起きている事態は、まさに「気味悪い影」としか言いようがない。怪異の正体をみせずに、その気配を点滴のように読者の脳裏に注ぐホジスンの手つきが巧みだ。確かに結んだはずなのになびいている帆。「お化けは一匹じゃねえぜ」と口走るウィリアムズ。檣(マスト)から転落し激突死した乗組員。夜陰に手摺りを乗りこえ甲板へあがってくるゾッとする人影みたいなもの。目撃した者の証言では、その影はまた海へと帰っていくという。
船乗り暮らしが長いジェソップは「海のなかにはどんなものがひそんでいるとも知れない」と戦慄する。ここまでは超自然ホラーの常套とも言うべき展開だ。
ホジスンが独特なのは—-そしてこの作品を《ボーダーランド》と呼ぶ理由は—-、その超自然と現実との位相である。作中から引用しよう。
「おれたちと彼ら[海からくる存在]とは、おたがいにとっての現実というものをよくは知りえない。と言うより、一方にとっての現実世界がどういうものかよくわからないというべきかな。(略)仮におれたちが、ちゃんとした普通の空気とでも呼べるもののなかにいるとしたら、おれたちの見たり触れたりする力では、どうやっても彼らを感じとることができないわけだ。そしてそれは彼らにとっても同じだろう」
つまり、この現実のなかに超自然の存在が潜んでいるのではなく、現実そのものが二重になっていて、お互いが影のようにしか感じられない。恐ろしいのは、その二重現実がはっきりと隔絶されておらず局所的に同調してしまうことで、それがいまモルツェストゥス号に起こっている。引用した箇所の表現を借りれば、この船はもはや「ちゃんとした普通の空気」のなかにはない。
現実の位相からずれたため、視界は霧に閉ざされ、陸地はおろか近くを航行しているはずの船すら見分けがつかない。どこを航海しているかもわからない状況のなか、海からくるゾッとする影の脅威は増すばかり。行方不明になる乗組員も出て、船内の統制も急速に失われていく。圧倒的な絶望と閉塞感。そして凄惨なクライマックスが……。
本書は新しく創刊された《ナイトランド叢書》の第一弾。先述の『〈グレン・キャリグ号〉のボート』邦訳もここからの予定だ。また品切れ中の『異次元を覗く家』もあわせて復刊されるので、《ボーダーランド三部作》が同じ体裁で揃うことになる。
なお同叢書の第二弾として、ロバート・E・ハワードの短篇集『失われた者たちの谷』もすでに刊行ずみ。こちらはハワードのヒロイック・ファンタジイ第一作をはじめ、怪奇小説と西部小説とのミックスや、探偵小説仕立てのホラー、ボクシング小説に幽霊を登場させた珍しい作品など、パルプ雑誌全盛期に活躍したハワードのさまざまな側面がうかがえる内容となっている。
(牧眞司)
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