夏休みに読むべき究極の一冊はこれだ!
8月に入り、夏の暑さも今が盛りである。そろそろ夏期休暇をとられる人も多いだろう。そういう方は旅のお供に何か一冊、ということで選書の準備に入られているはずだ。
旅先に携えていった本がつまらないことほど読書好きを悲しませる出来事はない。そこで今回は、夏季休暇に読むべき究極の一冊をご紹介したい。
カーター・ディクスン『ユダの窓』(創元推理文庫)だ。
他にも良書は多く出ているが、これをぜひお読みいただきたい。旧作ではあるが、高沢治による新訳版が刊行された。夏のこの時期に読んでくれ、と東京創元社は言いたいのだろう。応。そういうことなら版元の気持ちに応えようではないか。
『ユダの窓』は、カーター・ディクスンが1938年に発表した、この名義での第7長篇である。言うまでもなくディクスンは、アメリカ出身でイギリスに長く移住していた作家、ジョン・ディクスン・カーの別名義である。カー=ディクスンは、不可能犯罪トリックを扱った謎解きミステリーの名手であり、熱烈なファンが今なお存在する。『ユダの窓』が書かれた1930年代後半は彼の第一の絶頂期にあたり、『火刑法廷』(1937)『死者はよみがえる』『曲った蝶番』(1938)『緑のカプセルの謎』『読者よ欺かるることなかれ』(1939)などの傑作が集中して書かれている。この時期の作品を読んでカーにはまったファンはとても多いはずだ。トリックメイカーのカーを評価する人は多いが、この数年間のアイデア量は神がかっていると言ってもいい。
その時期の作品でも特に『ユダの窓』を私は推したい。推しても推しても気が済まないぐらい推したい。その理由は本書が、カー作品中でも随一のサスペンスフルな作品だからである。また同時に、カーのもう一つの特徴である冒険小説好き、弱きを扶け、強気を挫く、ヒーロー譚の書き手としての顔も如実に現われてもいる。
本書の構成は非常に単純だ。まずプロローグには「起こったかもしれないこと」という副題が付されており、この本の主要な謎がいきなり呈示される。ジェームズ・アンズウェルという青年が銀行の元頭取のエイヴォリー・ヒュームという老人の邸を訪ねる。老人の娘であるメアリとの結婚を承諾してもらうためだ。2人は水入らずで書斎に入る。ところが何が起きたのか、ジェームズは話の途中で意識を失い、倒れてしまう。覚醒したとき、目の前には胸に矢を突き立てられたエイヴォリー老人が倒れていた。部屋は内側から施錠されており、自分以外に犯人たりうる人間はいない。狼狽するうちにドアがノックされ……というのがプロローグで綴られる内容だ。
続いて本編である「中央刑事裁判所」の章が始まる。この章が全体の約9割を占める。章名から判るとおり、ジェームズを被告とする裁判の場面が描かれるのである。副題に「起こったと思われること」とあり、検察側が自らの仮説を証明してジェームズを有罪にしようとし、弁護側がそれを否定して無罪にしようとする。その緊迫した論戦が延々と展開されていくのである。法廷ミステリーとしてはまったく無駄がなく、そのやりとりだけで小説は構成されている。にもかかわらず、読者は話にひきつけられてしまうのだ。それは、ジェームズ弁護側の旗色が絶望的なほど不利だからである。
プロローグが「起こったかもしれないこと」なのは、それが被告人であるジェームズ側の言い分で構成された内容だからだ。それはもしかすると嘘なのかもしれない、と読者は思わされる。この裁判の果てには彼の有罪が証明されるのかもしれない、だからこそ「起こったかもしれないこと」なのだろうか、「本当に起こったこと」と題されたエピローグではとんでもない真相が明かされるのではないか、と。この不安感を終始途切れさせないことによって、本書は抜群におもしろい読み物になっている。
その「不可能」な無実の証明に挑むのが、実は弁護士資格の持ち主であった、ヘンリ・メルヴィル卿なのである。HMと略称で呼ばれることもあるこの探偵は、カーター・ディクスンの持ちキャラクターで、ほとんどの作品に登場する。人を食った振る舞い、無頼漢のような行動をすることで知られる探偵であり、本書でも証人の反対訊問に立った瞬間に自分の法服を踏んづけて破いてしまうというへまを披露するが(なにしろ15年ぶりの法廷だったらしい)、道化のような場面はほとんどない。本書におけるHMは、すこぶるつきにかっこいいのだ。知性のみで不可能を可能にする名探偵の姿に痺れたければ本書を読め、と言いたい。
名探偵の真意は例によって最後の最後まで明かされないのだが、真相を知ってから読み返すと、彼の脳内で何が起きているかが手に取るようによくわかる。証言や証拠の取り扱いに無駄はまったくない。結末へ向けて緻密な計算が行われていることが理解できて感激するばかりなのだ。
もう一度書くが、今年の夏季休暇にはぜひ『ユダの窓』を。鞄に1冊しか入る余地がなかったら、この本だけ持っていけばいい。旅先で読み終えてしまって他に本がなくても心配することはない。
『ユダの窓』をまた最初から読み返せばいいのだ。
(杉江松恋)
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