狂気が生みだした「月」、「月」が夢見る言語化しえぬ現実
冒頭はいきなり天使降臨による日常の壊滅だ。もはや地上には安全な場所はなく、菱屋修介は自らの妄想がつくりだした「月世界」へと逃げこむ。そして、現実が分岐する。
修介がもといた日常は、章題では「世界n」と示されている。
一方、分岐した現実のひとつ「世界n+1」では、ニホン語が失われている。もとからそんな言語など存在しないというのが言語学者のあいだでの定説だ。敗戦によりニホンの公用語は英語になったが、それ以前から上位言語として英語は使われており、そのほかに何種類かの俗語があったらしいがそれらは口語だったので文献は残っていない。
この定説に異を唱える異端派もいる。言語学研究を進めるなかで直感的にニホン語に行きあたった者、あるいは政治的運動のなかでニホン語隠蔽の陰謀(?)を疑う者。「世界n+1」での物語は1975年で進行し、当時の世相が大きな影を落とす(その雰囲気に多くのSFファンは山田正紀『神狩り』を思いだすだろう)。言語学の大学院生ヒッシャー(修介の分身)は体制転覆の計画に巻きこまれ、その渦中でニホン語に由来する人工言語《ポリイ》—-平行多義言語(ポリフォニー)の略—-を操る子どもと出会う。《ポリイ》は現実を上書きする。ひとの情動を刺激し具体的な「意味」を感じさせる。そして言葉がカタチになって定着する。
言語を実在もしくは物理作用として扱うSFはこれまでも書かれてきた。たとえば、川又千秋『幻詩狩り』、神林長平『言壺』。それは途轍もない空想(アイデア)だが不思議と心に残る。ただ、それを読者が納得するように描くためには、かなり慎重にロジック/レトリックを組みたてなければならない(それをすっ飛ばすと問答無用のナンセンス小説になってしまう)。
牧野修はロジック/レトリックの要として、「月」なるギミックを導入した。作中にこんな説明がある。
言語能力は世界と自己との関係性を修復するための能力だ。ところがその言語能力こそが仮想世界をつくり、人と世界を隔絶する元凶になる。この矛盾が人に混乱を与える。この混乱こそが人類の持つ根源的狂気を生む。人はこの狂気と常に対峙していなければならない。人が人である限り解決不能な矛盾が生みだす狂気。それが妄想と化し、もう一つの月を生んだのだ。
引用箇所は菱屋修介の分岐した現実のひとつ「世界n-1」のなかにあるが、じつはこの『月世界小説』の冒頭で描かれた異変の説明にもなっている。「世界n」における天使来襲は「根源的狂気」であり、それが月(=菱屋修介が逃げこむ月世界)を生む。
作品の内側で作品世界そのものの成りたちが示される。ちょっと凝ったウロボロス的仕掛けだ。しかし、本当に重要なのはその先だ。月世界へ逃げこんだはずなのに、なぜ現実が分岐するのか?
具体的に言うと、「世界n+1」はニホン語が失われた現実、「世界n-1」は戦争状態にある現実だ。後者では、菱屋修介は菱屋修介のままで「世界n」にいたときと意識が連続している。ただ、現実のほうは大きく変わっており、彼がいるところは月面で時代もさだかではない。修介は軍隊の一員として《駆流(ドラフト)》と呼ばれる円盤に乗務して、《駱駝》なる敵を攻める。そこで用いられる兵器は「記号破壊(セミオクラスム)砲」。これはまさしく言語の戦いである。そして《駱駝》は尖兵にすぎず、敵の本体は月そのものだ。おそらく月の実体(?)に到達したとき、現実が分岐した理由が明らかになるだろう。
かくして物語は平行宇宙にまたがり、フィジカルからメタフィジカルへとたちまち繰りあがる。めくるめくセンス・オヴ・ワンダー!
だが、そうした「大きな読みかた」とは別に「もうひとつの読みかた」ができる。これは牧野修の私小説なのだ。と言っても、普通の意味での私小説ではない。
「世界n+1」がニホン語の真相へ、「世界n-1」が月そのものへと迫るうち、物語のなかに菱屋修介ともヒッシャーとも違う「ぼく」があらわれる。リアルに姿を見せるというよりも、「ぼく」という意識が言葉のなかに析出してくる感じだ。「ぼく」は自分が誰なのかわからないが、しだいに記憶がよみがえってきて小説家だったことを思いだす。ぼくは作中では『月世界小説』『石榴界記録』という小説を書いており、それが分岐した現実のなりたちに関わっている。
しかし、半歩引いて見れば、いままさにこの『月世界小説』を書きつつある牧野修こそが「ぼく」なのは明らかだろう。そこへ思いが至ったとき、読者はいやおうなく直面するのだ。この小説がいかなる言語で書かれているかに。
(牧眞司)
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