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失われた『兵庫県民歌』を求めて──1947年制定の県民歌はなぜ「存在しない」ことにされているのか?

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筆者は昨年11月、今から100年以上も前の1903年(明治36年)にある軍人が作った『兵庫県歌 我が軍旗』を紹介する記事を書いた。

未制定のはずの兵庫県歌が100年以上前に作られていた! その名は『我が軍旗』 – ガジェット通信

当然ながら、この『我が軍旗』は“私製県民歌”に過ぎず、公的に採用されたものではない。そして、筆者はこの記事を書いた時点では「兵庫県には未だ正式な県民歌は存在しない」と認識していた。ところが、その後も様々な資料を調べてみた結果「県民歌は存在しない」と言う県の主張は間違っており、1947年(昭和22年)に当時の知事が「正式な県民歌」として制定した『兵庫県民歌』が存在していたことが明らかになったのである。

『兵庫県民歌』の歌詞(前半)

『兵庫県民歌』は全4番から構成されている。ここでは、著作権法第32条の規定に基づき「報道・批評・研究」に必要な範囲として全体の半分に当たる1・2番を引用する。

兵庫県民歌 作詞:野口 猛 作曲:信時 潔

一、 わき立つ喜び 日本のあけぼの
   長夜(ちょうや)の眠りは さめたり今こそ
   大道(たいどう)開かる 布(し)く新憲法
   ゆくては明るし 民主の楽園
   いざわれら 共に起(た)たん
   建設の力ぞ われら わが兵庫

二、 あかるき海原 みどりの山々
   野の幸ひらけて 恵みはゆたかに
   のびゆく産業 港のにぎわい
   いさおは継ぐべし 国土にふたたび
   いざわれら 共にゆかん
   復興の先駆ぞ われら わが兵庫

(出典:神戸新聞・1947年2月19日付2面)

この楽曲は日本音楽著作権協会(JASRAC)のデータベースには登録されていない。そもそも登録されていれば現在のように県から制定の事実そのものを否定されることもなく、もっと広く存在を認識されていたはずである。

『兵庫県民歌』の制定経緯

現在では存在しないことになっている『兵庫県民歌』の制定を提唱したのは官選第32代かつ民選初代の兵庫県知事・岸田幸雄(1893-1987)である。1946年(昭和21年)に民間から異例の形で抜擢され、県下の敗戦処理を担う命を負った岸田は同時期に連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から東京都長官への勧奨で『東京都歌』の制定準備が進められていたことや宮城県と河北新報社が合同で“復興県民歌”を募集して『輝く郷土』を制定したこと、またその他にも複数の県で憲法普及会支部が翌1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行記念式典に間に合わせるべく新県民歌の制定準備が急ピッチで進められていた流れに着目し『兵庫県民歌』の制定を提唱した。歌詞の一般公募に当たっては知事自らが審査委員長を務め、他の審査委員は詩人の富田砕花、県教育部長の堀隆三、そして神戸新聞社社長・朝倉斯道と言う顔触れで、神戸新聞社が後援することになった。

神戸新聞の1947年2月19日付2面には「兵庫県民歌決る」の見出しで入選作が紹介され、北は北海道から南は鹿児島まで全国から720編の応募があり32編の最終候補作から国民学校(現在の小学校)教員・野口猛(当時40歳)の応募作が入選したことが報じられている。『兵庫県民歌』制定から7年後には、川西市の市歌募集でも野口の応募作が入選した。作曲は交声曲『海道東征』や合唱曲『沙羅』で知られ、新旧2代にわたり山口県の県民歌を作曲した信時潔(1887-1965)に依頼されている。

入選作の歌詞は一読すればわかるように「日本国憲法の施行」と言う重大事を歓迎し、戦争により荒廃した国土の復興に向けた決意を表明するものとなっている。この特徴は、同時期に“復興県民歌”として制定された宮城県の『輝く郷土』や『新潟県民歌』、また『鹿児島県民の歌』などにも共通して見られる傾向である。

5月3日に神戸の兵庫県議会議事堂で挙行された日本国憲法施行記念式典では、県立第一神戸高等女学校の生徒がこの『兵庫県民歌』を初めて合唱したことが神戸新聞の1947年5月4日付2面で報じられている。5月8日には改めて当時は県庁からほど近くにあった親和高等女学校の講堂で「兵庫県民歌発表音楽会」が執り行われた。神戸新聞の1947年5月9日付2面では発表会の席で岸田知事が「県民歌制定の意義とその普及を願うあいさつ」を行ったと報じられているが、この時の知事の願いとはまるで正反対の運命を『兵庫県民歌』はたどって行くことになる。制定主体であった県から制定した事実そのものを否定されるまでに忘れ去られ、まさしく「長夜の眠り」に就いてしまったのである。

制定を主導した知事の失脚が“県民歌消失”の原因?

この『兵庫県民歌』を制定した岸田知事は1951年(昭和26年)の知事選でも再選されたが、2期目(官選時代を含めた場合は3期目)の途中で県庁内に“お家騒動”が勃発する。副知事が「県庁内で大規模な不正経理が行われている」と告発し、100人以上が事情聴取を受ける異常事態が発生したのである。岸田は告発内容を事実無根として副知事を罷免したが、一方の副知事はこの処分を不服として知事に辞任を迫った。結局、事件の捜査ではただの1人も起訴に至らないまま告発は取り下げられたので、真相はいまだ不明のままである。

不可解な結末を迎えた“お家騒動”で世論は自分に同情的であるとみた岸田は任期途中の1954年(昭和29年)に辞職を表明し、出直し知事選が行われることになった。当初は岸田と前副知事の一騎打ちかと思われた選挙戦は尼崎市長の阪本勝(1899-1975)が社会党推薦で出馬したことから情勢が一変し、ふたを開けてみれば岸田と前副知事の共倒れで阪本が漁夫の利を得て当選した。阪本は2期8年の在職中“文人知事”として親しまれ、知事を退いた後は県立近代美術館の初代館長に就任するほどの趣味人であったが、阪本県政では前任者の岸田が制定した『兵庫県民歌』は引き継がれなかったようである。

1964年(昭和39年)、現在の兵庫県庁舎が落成したことを記念して県旗が制定された。同時期には岩手県と三重県でもやはり県庁舎落成を記念して県旗と県民歌が制定されているが、兵庫県が県旗しか制定しなかったのは17年前に『兵庫県民歌』を制定した記憶が(もはや演奏されなくなり有名無実化していたとは言え)まだ残っていたからではないかと考えられる。しかし、この県旗制定に前後して岸田時代の『兵庫県民歌』は県庁を震撼させた“お家騒動”の忌まわしい記憶と共に存在を否定されたのか対外的に「県民歌は存在しない」と言う主張が行われるようになり、現在に至っている。

県は一度も「廃止した」とは言っていない

ここで誤解すべきでないのは「1947年(昭和22年)制定の『兵庫県民歌』を廃止する」と言う宣言は今日まで行われていないと言うことである。もし『兵庫県民歌』がある時点で廃止されたのであれば「過去に『兵庫県民歌』を制定していた」と言う事実ぐらいは記録されているはずだが、県は現在「廃止した」と言うでもなく過去に県民歌を制定した事実そのものを否定している。このような例は他にもあり、例えば宮城県の『輝く郷土』も一度は忘れ去られ1960年代から70年代にかけては多くの資料で「未制定」とされていたが、後に制定の事実が再確認されて“復活”している。

ただ、67年前に制定された『兵庫県民歌』が現在の県を象徴する歌としてふさわしいかどうかは別の問題であろう。だからと言って、過去の制定事実をも否定し続けて来た県の誤りが正当化されるわけではない。県が数十年来の「県民歌は存在しない」と言う主張が誤りで『兵庫県民歌』が過去に制定されていた(そして、恐らくは廃止されていない)事実を認めて訂正し、そのうえで『兵庫県民歌』を『輝く郷土』のように地位確認を経て復活させるのか、別の楽曲を2代目の県民歌として制定するのか出来るだけ早期に結論が出されることを願ってやまない。

なお、この『兵庫県民歌』の存在を示す資料として審査委員の富田砕花が校閲した歌詞の原稿と選評が芦屋市立美術博物館に、また作曲者の信時潔が書いた自筆の楽譜が東京藝術大学図書館に所蔵されている。

写真は兵庫県民歌発表音楽会(神戸新聞・1947年5月9日付2面より)

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