社会を良くしようとする時は、副作用についても考えなければならない

社会を良くしようとする時は、副作用についても考えなければならない

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

社会を良くしようとする時は、副作用についても考えなければならない

なんかネットではそこら中に社会を少しでも良くしようとする人が、転がっている。素晴らしいことなのかもしれないが、そういう人たちって得てして短絡的なんだよね。目的以外のことしか考えていない。

基本的に社会問題というのはモグラたたきのようなもので、ある問題を解消しようとすると、別なところに問題が出てくる。たとえば1970年代は校内暴力が社会問題になった。生徒同士あるいは先生に対する暴力。

「校内暴力」 『Wikipedia』
http://ja.wikipedia.org/wiki/校内暴力

ドラマ「スクールウォーズ」なんかは、その世相を反映したものだ。

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で、いろいろ対策をとって校内暴力は一応沈静化した。しかしそれに変わって1980年代からはいじめ問題が台頭してきた。ようするに「見えにくい」形になったわけだ。「いじめ」なんて単語この時初めて耳にした。「いじめる」という動詞はそれまでも使われていたが。

さらにいじめ問題も社会でクローズアップされ、文部省(現在の文科省)などが対策に乗り出した結果、表面的にはいじめもなくなった。でもそれは学校側が報告しなくなっただけだったんだよね…。

そんなことなら、いっそわかりやすい校内暴力のままの方が良かったのではないかという気さえしてしまう。

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自然界だってそうだよね。洪水を防ぐために一生懸命ダムを作ったら、こんどはそのダムによる生態系の破壊とかが問題になりだした。フロンも無害で便利な物質だと思ってどんどん使っていたら実はオゾン層を破壊してたとか。

何かを変えれば、その影響で他のことも変化する。それが自然や人間社会。どうしても解決しなければならない切羽詰まった問題ならしかたないが、そうでないなら、あまり余計なことをしない方が、結果的に副作用に振り回されず、無駄なコストが減ると思うのだが。

社会を良くしようとしてる人たちってのは、本当になんの副作用もなく問題が解決できると思っているのだろうか。それともそれによって二次的に起こる問題は知ったこっちゃないと思ってるのか、はたまた二次的な問題が起これば、さらに社会を良くするための課題が増えて、いっそうやりがいを感じると思っているのか…。

やってることは人間の自己満足で自然に手を入れて、便利にしようとしたら逆に自然からしっぺ返しを食らって右往左往しているのと同じだよね。そんなはた迷惑なものに、生きがいを見出さないで欲しいのだが…。もっと自分の欲望とか近視眼的で利己的な、ささやかでかわいげのあるものに執着してほしいものだ。独善的な考えで社会を良くしようなんて人間よりは、よっぽどコンビニの冷蔵庫に入ってる人間の方が健全で害がない。

「スクールウォーズ OP」 『YouTube』




(画像が見られない方は下記URLからご覧ください)
http://youtu.be/TnA42X497ZM

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年08月09日時点のものです。

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