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赤瀬川原平氏の著作から盗作を発見~佐野眞一氏の「パクリ疑惑」に迫る(第12回)

表紙

【特別取材班より:この連載のすべてのリンクと画像をご覧になりたい方は、ガジェット通信サーバー上の記事をご覧ください。】

赤瀬川原平氏の読者を驚愕させた佐野氏の原稿

ガジェット通信特別取材班のもとに、読者X氏から情報が寄せられた。X氏は作家・赤瀬川原平氏の熱心な読者だ。以前たまたま目にした佐野眞一氏の原稿に、赤瀬川氏の著作とソックリの記述を発見したという。当時、驚いて何度も読み比べたことが印象深いそうだ。

佐野氏の著作『紙の中の黙示録 三行広告は語る』(文藝春秋、1990年6月刊行)の冒頭部分では、赤瀬川原平氏の著作を参考にした三行広告についての記述がある。同書では赤瀬川原平氏のクレジットがきちんと明記されており、三行広告の記述については盗用・剽窃には当たらない。X氏の記憶に色濃く残る盗作原稿とは、いったいどこに掲載されているのだろう。

調べを進めていくと、どうやら平凡社が 1984年12月から93年4月まで発行していた雑誌「QA」の別冊ないし臨時増刊号に、佐野氏が問題の盗作記事を寄稿しているらしいことがわかった。早速「QA」のバックナンバーを調べようとしたものの、膨大な雑誌と目次情報を保有する大宅壮一文庫にも「QA」は所蔵されていない。出版元の平凡社に問い合わせたところ、自社保存用の資料ストックがないため、「QA」の別冊ないし臨時増刊号にに佐野氏が寄稿しているかどうかさえ確認できないという。

そこでガジェット通信特別取材班は、古書市場から「QA」の別冊や臨時増刊号と思しき商品を片っ端から買い集めた。そしてとうとう、「QA」(92年7月号)臨時増刊「暮らしの大疑問」に佐野氏の原稿を発見した。

文献参照元を入れたりハズしたりする不思議な筆者

「QA」(92年7月号)臨時増刊に載った盗作記事を検証する前に、佐野氏の著作『紙の中の黙示録 三行広告は語る』を繰ってみよう。同書では、「芸術新潮」(84年7月号)に載った赤瀬川原平氏のレポートを紹介しつつ、以下のように綴る。

《赤瀬川は数年前から尋ね人の広告をコレクションしており、これを追っていくと、尋ねる側と尋ねられる側の二人だけのドラマが、一億人の注視のなかで進行するのをみているようだという。
【※以下、両親が「隆」に宛てた悲痛なまでの三行広告を15件にわたって列挙】
 息ぐるしくなるようなドラマ展開である。赤瀬川も最後の広告を見て思わずホッと息をついたといい、次のように結んでいる。
〈以後、隆への三行広告は出ていない。隆とその母親であろう真佐子との関係線は、新聞紙の片隅を離れて、一億人の渦の中へ潜っていった。もはや私たちには何もわからない〉》(佐野眞一『紙の中の黙示録 三行広告は語る』文藝春秋11〜13ページ、ちくま文庫版も11〜13ページ)

「芸術新潮」(84年7月号)に掲載された赤瀬川原平氏の原稿は、尾辻克彦・赤瀬川原平著『東京路上探検記』(新潮社、86年7月刊行、新潮文庫版は89年10月刊行)にまとめられている。なお「尾辻克彦」と「赤瀬川原平」は、同一人物の異なるペンネームだ。

先述のとおり、『紙の中の黙示録 三行広告は語る』では赤瀬川原平氏の原稿を参考にしたことが明記されている。「QA」(92年7月号)臨時増刊「暮らしの大疑問」に掲載された佐野眞一氏の4ページの原稿には、「赤瀬川原平」のクレジットはどこにも見当たらない。にもかかわらず、まるで佐野氏オリジナルの記述であるかのように堂々たる盗作が展開されているのだ。

以下、赤瀬川原平氏のタネ本と、佐野氏によるパクリ原稿を比較列挙しよう。少々長くなるが、問題の箇所を正確に全文引用しておきたい。

赤瀬川原平氏のタネ本

赤瀬川氏原稿

《毎日配達される新聞を時系列で重ねてみると、三行広告はまさに電柱みたいに、その同じ通りに面してズラリと立ち並んでいることになる。
 それを切り取って集めてみようなんて思ったのは、一九七四年のころだ。(略)必要な新聞記事を切り抜くついでに、三行広告があれば切り取って順番にノートに貼っていった。
(中略)
【※以下、三行広告部分は現物のコピーを貼りつけている。三行広告の文字部分は「 」でくくって引用する】
「隆ちゃん お父さんが重病で入院 至急連絡をして下さい 真佐子」
(中略)
「隆 父心配のあまり重病 何も聞かぬ無事だけ知らせ 真佐子」
 また隆だ。しかし真佐子はさっきもあったぜ、とN君が言う。五ページほどさかのぼってみる。五ページで五ヵ月ぐらいだろうか。あった。やはり同じだ。しかし前のは隆ちゃんだ。それがこの間に三回出ている。それが今度はちゃんが取れて隆に。何か切迫したものを感じる。
「隆 父心配のあまり重病 何も聞かぬ無事だけ知らせ 真佐子」
 文字が大きくなっている。私はN君と顔を合わせた。次にまたあった。
「隆 無事の便り、家族皆うれし泣きした。近所の人達は誰れも知らぬ。過去と今後の進路は一切問わぬ。重病の父に一目だけでも会って欲しい 真佐子」
 隆は便りを出したのである。
(中略)
 しかしそれで終わりではなかった。
「隆 父は肝硬変で病床にあります。過去の事は一切心配いりません。勇気を出してぜひ電話して下さい。父は病床でそればかり待っています。 真佐子」
 文面が増えている。隆は電話をしないらしい。勇気とは何だろうか。これが二回つづいたあとメッセージは変る。
「隆 隆の部屋はあのままで淋しく帰りを待っている 表も裏口もいつも開けてある。便りだけでもせよ。 両親」
 両親とあるが、これも間違いない。N君もそう言う。隆の顔は見えないが、隆の部屋が思わず見えてきてしまう。これが二回つづいてさらにメッセージは変る。
「隆 やさしい隆。涙の親に一目会って助けてくれ。どんな相談にも乗る。過去は心配いらぬ。無事なら是非便りせよ。 両親」
 これも二回つづいている。どんな過去があったのだろうか。ほかにも無数にある「心配」と「連絡」のミニ電柱をかきわけるようにしながら、私たちは「隆」だけを追って行った。もはや註釈はいらないだろう。以後のすべてを掲載しよう。
「隆 父の病状思わしくない。近所の人達は何も知らぬ。一目だけでも会いたい 真佐子」
「隆 父の病状思わしくない。近所の人達は何も知らぬ。一目だけでも会いたい 真佐子」
「隆 父の病状思わしくない。近所の人達は何も知らぬ。一目だけでも会いたい 真佐子」
「隆 父の病状思わしくない。近所の人達は何も知らぬ。一目だけでも会いたい 真佐子」
「隆 父の病状思わしくない。近所の人達は何も知らぬ。一目だけでも会いたい。 真佐子」
「隆 父の病気と隆の心配で母は倒れそうだ。今母が倒れたらどうなるか。隆、たのむから連絡してくれ 真佐子」
「隆 父の病気と隆の心配で母は倒れそうだ。今母が倒れたらどうなるか。隆 たのむから連絡してくれ 真佐子」
「隆 父の病気と隆の心配で母は倒れそうだ。今母が倒れたらどうなるか。隆、たのむから連絡してくれ 真佐子」
「隆 元気出して会ってくれ どんな相談でものる 姉の所まで来てくれ、母も行く、日時知らせ 喜市」
「隆 元気出して会ってくれ どんな相談でものる 姉の所まで来てくれ、母も行く、日時知らせ 喜市」
「隆 過去心配するな。意志尊重。心配している両親を思うて連絡せよ。 両親」
「隆 三年近く母は日夜心配して泣いて倒れそうだ。連絡あれば母は必ず元気になる。 両親」
「隆 三年近く母は日夜心配して泣いて倒れそうだ。連絡あれば母は必ず元気になる。両親」
「隆 両親は隆の為に生きている。過去心配いらぬ。どんな相談にも乗る。連絡待つ。 両親」
「隆 両親は隆の為に生きている。過去心配いらぬ。どんな相談にも乗る。連絡待つ。 両親」
「隆 父吐血して高松の中央病院10階へ入院。母だけで待つ。 真佐子」
「隆 父吐血して高松の中央病院10階へ入院。母だけで待つ。 真佐子」
「隆 父吐血して高松の中央病院10階へ入院。母だけで待つ。 真佐子」
「隆 父吐血して高松の中央病院10階へ入院。母だけで待つ。 真佐子」
「隆 父キトクすぐ帰れ 高松中央病院入院中 真佐子」
「隆 父キトクすぐ帰れ 高松中央病院入院中 真佐子」
「隆 父死亡した すぐ帰れ 真佐子」
(中略)
 以後隆への三行広告は出ていない。隆とその母親であろう真佐子との関係線は、新聞紙の片隅を離れて、一億人の渦の中へ潜って行った。もはや私たちには何もわからない。》(尾辻克彦・赤瀬川原平著『東京路上探検記』新潮社、86年7月刊行、69〜75ページ/新潮文庫版は89〜100ページ参照)

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