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「化城の人」連載で「コピペの人」の地位を不動のものにした~佐野眞一氏の「パクリ疑惑」に迫る(第8回)

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「週刊ポスト」大型連載「化城の人」に無数のパクリが

本連載第4回では、佐野眞一氏による小学館「週刊ポスト」の大型連載「化城(けじょう)の人 池田大作と創価学会の80年」パクリ疑惑についてレポートした。
http://getnews.jp/archives/267742[リンク]

先述のとおり、「化城の人」は佐野氏が抱える、現在進行形の最も大きな連載である(第1部の連載が終了し、現在第2部再開を控えて現在は連載中断中)。

本連載第4回のレポートでは、月刊「パンプキン」編集部によるフォトエッセイ集『創価教育の源流 牧口常三郎』(潮〈うしお〉出版社、2001年11月刊行)からの全10件にわたる剽窃(ひょうせつ)を列挙した。
一見してわかるとおり、言い訳のしようがないザ・パクリだ。しかも潮出版社とは、よりによって佐野氏にとって敵方にあたる創価学会系の出版社である。

佐野氏による「化城の人」パクリは、これだけではない。

41年前に出版された日隈威徳(ひぐま・たけのり)著『戸田城聖 ―創価学会―』(新人物往来社、1971年2月刊行)からも、大量にコピー&ペーストしていたのだ。

以下、佐野氏によるコピペの実態を全10件にわたって列挙しよう。

剽窃箇所その1

明治三十七年(一九〇四)二月、日露戦争がはじまったが、この年の五月、戸田一家は、生活の道を求めて北海道に移住した。石狩川の河口から五里ほどの石狩郡厚田村である。だがここも、ときたまのニシン漁でにぎわう以外は、ほとんど漁らしい漁のない貧しい漁村で、日露戦争後はカラフトへの出かせぎの村になった

一万人たらずの厚田村も、ニシン漁の盛期である四月から七月にかけては、北海道各地や内地から繰り込んでくる臨時の漁夫で、三万の人口にふくれあがる。
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、16ページ)

戸田一家が北海道に移住して二年後の明治三十七(一九〇四)年、日露戦争が始まった。その戦勝気分に昂揚した明治三十年代後半には、一万人あまりしか住民のいない厚田村も、ニシン漁に各地から繰り込んでくる臨時の漁夫で、人口は三万人にもふくれあがった。
だが、間もなくニシン漁は不漁になり、厚田村はカラフトに新たなニシンの漁場を求める出稼ぎの村になった。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年3月2日号、56ページ)

剽窃箇所その2

《戸田は、北海道の先輩の紹介状をもって、大正九年(一九二〇)の夏八月ごろ、当時、下谷の西町小学校長であった牧口常三郎の自宅を訪ねた。「戸田先生は後に、牧口先生宅をはじめて訪れられたとき、奥さんが井戸の水を汲み上げておられた情景をよく話されていた」(『大白蓮華』一五二号)そうであるが、牧口常三郎との出会いは、戸田の生涯の転機となったのである。
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、28ページ)

大正九年夏、戸田は就職活動のため、当時、東京下谷の西町尋常小学校校長の牧口常三郎を訪ねた。
この訪問の経緯については、牧口は戸田の母と知り合いだったからとも、戸田は北海道の先輩の紹介状を持って牧口を訪ねたともいわれているが、確かなところは不明である。
 ただ、戸田が訪ねたのは牧口の職場でなく自宅だったこと、訪ねた時期が夏だったことは、戸田が後に「牧口先生宅を初めて訪ねたとき、奥さんが井戸の水を汲み上げられていたのをよく覚えている」と語っていることから確認できる。
 これが戸田の生涯の転機になった。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年3月9日号、120ページ)

日隈氏の書籍では創価学会の機関誌「大白蓮華(だいびゃくれんげ)」152号という引用クレジットが入っているが、佐野氏の記事には引用元が明記されていない。また、記述全体が日隈氏の書籍とソックリだ。

剽窃箇所その3

はじめての対面で、戸田は、「先生、私を採用してください。私はどんな劣等生でも必ず優等生にしてみせます。私を採用してくだされば、あとできっと喜ばれるでしょう」とたのんだという。牧口は、「そうか、そうか」とうなずきながら、「きみの才能は成功すれば、すばらしく成功し、失敗すればまた大いなる敗残者になるであろう」といましめたという。戸田の自己紹介は、いかにも戸田らしいものだが、牧口も、よくその戸田の面目を見抜いたというべきだろう。
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、28~29ページ)

戸田はこの初めての対面で「先生、私を西町小学校に採用してください。私はどんな劣等生でも必ず優等生にしてみせます。私を採用してくだされば、あとできっと喜ばれるでしょう」と懇願したという。(略)
これに対して牧口は戸田の話を黙って聞いたあと、こう言って戒めたという。
「きみの才能は成功すれば、すばらしく成功するだろう。けれど失敗すれば、大いなる敗残者になるだろう」(略)
牧口は戸田を一目見て、この男の隠された本性を見破ったのだろう。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年3月9日号、120ページ)

剽窃箇所その4

戸田は、ともかくも生計の道を講ずるために渋谷道玄坂で、露天商の下駄屋をひらいた。下駄の緒は、夜なべしてかれ自身がつくった。
 その後、八千代生命という、そのころ大募集をはじめた保険会社の外交員になり、かなりの成績はあげた。
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、34ページ)

戸田はここから渋谷道玄坂に出て、露天の下駄屋を出した。下駄の鼻緒は長屋で夜なべして戸田自身がつくった。(略)
 生活苦にあえいだ戸田は、八千代生命という保険会社が社員募集していることを知り、同社の外交員になったこともあった。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年3月16日号、54ページ)

剽窃箇所その5

《戸田の事業の中心は、日本小学館【※取材班註=「日本小学館」は誤植。正しくは「日本正学館」】であったが、ここで東京、神奈川の小学校教師から零細な出資金を集めたもので、二〇円株を二十五円で売り出し、年二割という高い配当を約束した。
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、66~67ページ)

日本正学館は、創価教育学会に集まった小学校教師らからささやかな資金を集めて設立された出版社だった。戸田は同社の二十円株を二十五円で売り出し、年二割という高い配当を約束した。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年3月16日号、57ページ)

剽窃箇所その6

資金が豊富になった戸田は、神田に日本商事という手形割引き会社を設立し、昭和十八年一月には、千葉県の醤油問屋平野商店を九十五万円で譲りうけ、五万円の証拠金をおさめて兜町の証券界に進出した。事業がもっともさかんだった時には、十七の会社を支配し、資産金は六百万円、月収は一万円を超えたという。(村上重良「戸田城聖と折伏大行進」『近代日本を作った百人』下、所収、参照)》
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、67ページ)

戸田は資金が豊富になると、神田に日本商手という手形の割引会社を設立し、昭和十五(一九四〇)年には、兜町の証券界にも進出した。戸田の事業の最盛期には、十七の会社を擁し、資産は六百万円、月収は一万円を超えたという。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年3月16日号、57ページ)

日隅氏の著書では《日本商事》とあるが、佐野氏の原稿では《日本商手》と表記されている。日隅氏の著書では兜町の証券界に進出したのが《昭和十八年一月》とされているが、佐野氏の原稿では《昭和十五年》だ。また、日隈氏は《村上重良「戸田城聖と折伏大行進」『近代日本を作った百人』下、所収、参照》と参照文献のクレジットを入れているものの、佐野氏の原稿にはクレジットが明記されていない。

剽窃箇所その7

八月二十三日、アメリカ占領軍の第一陣が、神奈川県の厚木飛行場に進駐した日の「朝日新聞」の一面の左下隅に、一つの広告が載った。(略)
「中学一年用 二年用 三年用 数学・物象の学び方・考へ方・解き方(通信教授)」と、大きな活字が並んでいた。そして、小さい活字の説明は――数学・物象の教科書の主要問題を月二回解説し、月一回の試験問題の添削をする。解説を「綴り込めば得難き参考書となる」六カ月完了。各学年共六カ月分二十五円。前納のこと。
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、100~101ページ)

アメリカ占領軍の第一陣が、神奈川県の厚木飛行場に上陸する五日前の昭和二十年八月二十三日、当時、表裏二ページしかなかった朝日新聞の一面左隅に、こんな広告が載った。
〈中学一年用 二年用 三年用
 数学・物象の学び方 考へ方 解き方(通信教授)〉
 大きな活字で組まれているのはこれだけで、あとは細かい活字で次のように書かれている。
〈各学年別に数学物象の教科書主要問題を月二回に解説し月一回の試験問題の添削をなす。又これを綴込めば得難き参考書となる。資材関係にて会員数限定 六ヶ月完了 会費各学年共六ヶ月分二十五円前納 郵便小為替又は振替にて送金の事
(略)〉》
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年4月6日号、140ページ)

剽窃箇所その8

戸田の事業は、昭和二十四年(一九四九)の暮れから、急速に悪化し、負債はかさなる一方になった。戸田自身が理事長となっていた小口金融専門の東京建設信用組合が、預金高にたいして払い戻しが急増し、八月には営業停止の大蔵大臣命令を受けるところまできた。取りたてにからんで刑事事件として起訴されるかもしれなかった。債権者からはすでに告訴されていた。裏地がボロボロになった背広を着用しているので「ウラボロ」というあだ名を業者仲間からつけられたのはこのころである。
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、161ページ)

戸田の事業は昭和二十四年の暮から急速に悪化していた。戸田が専務理事となっていた小口金融と手形割引の東京建設信用組合は、預金高に対して払い戻し金額が急増し、翌年夏には営業停止の大蔵大臣命令を受けるところまできていた。
 理事長の戸田は債権者から告発され、刑事事件の被告としていつ裁判所に呼ばれてもおかしくない状況になっていた。この頃、戸田は裏地がボロボロになった背広をいつも着ているところから、業者仲間から「ウラボロ」とあだ名されていた。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年4月20日号、125ページ)

剽窃箇所その9

はやくから創価学会の軍隊組織類似の布教活動に眼をつけていた法務府特審局は、暴力主義的行動を是認する傾向が見られるなどの理由で、昭和二十六年一月二十六日、会長戸田に「今後、折伏においては、暴力及び脅迫等の不法行為を一切禁止し、これを全会員に徹底させる」むねの始末書を提出させ、諭示処分に付した。
 創価学会では「本部」からの注意として、折伏にあたっては、「あく迄も礼儀は正しくしなければならぬ。興奮から罰論をのべるに付いて脅迫と取られぬ様、あく迄も冷静に経文道理からの罰論をのべる事」などの指示を行なっている。
 青年部に参謀部が設置され(二月九日)、主任参謀に石田次男、参謀に竜年光・池田大作が任命され
、青年部の折伏活動の企画の中心になった。のちの参謀室の前身である。参謀部とは、いうまでもなく軍隊における作成計画、行動の司令センターであり、戸田は軍事組織の導入によって、集団行動の指導にあたらせたのである。
 戸田は、第1回男女合同青年部研究発表会(二月十七日)で、青年たちへの期待を語った。
   
「不肖青年部は僕の旗もとであります。三代会長は青年部に渡す。牧口門下には渡しません。何故かといえば老人だからです。ゆずる会長は一人でありますがその時に分裂があってはなりませんぞ。今の牧口門下が私をささえるように三代会長を戸田門下がささえて行きなさい。
(略)」》
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、208~209ページ)

昭和二十六年一月二十六日、かねてより創価学会の軍隊組織によく似た布教活動を危険視してきた法務府特審局(現・公安調査庁)は、学会宛てに「今後、折伏活動は暴力、脅迫等の不法行為は一切禁止すること」という旨の通達を出した。
 これに対し戸田は、「折伏は礼儀正しくなさねばならない。罰論を述べるときも脅迫ととられぬよう、あくまで冷静にふるまうこと」という指示をした。
 翌年二月九日に、青年部に参謀部(後の参謀室)が設置されたのも、こうした流れの一環だった。参謀部は戸田直系の青年部員が統括する学会の司令センターだった。
 主任参謀には、次代の学会を背負って立つ逸材と早くから注目されていた石田次男が選ばれ、参謀には龍年光、池田大作が任命された。
 それから約一週間後の二月十七日、戸田は彼らを含めた第一回男女合同青年部研究発表会で、こんな檄を飛ばした。
「青年部は不肖私の旗本であります。三代会長は青年部に渡す。牧口(常三郎)門下には渡しません。何故ならば彼らは老人だからです。譲る会長は一人でありますが、そのとき、決して分裂があってはなりませんぞ。いまの牧口門下が私を支えたように、三代会長を戸田門下が支えて行きなさい」

(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年5月18日号、122~123ページ)

剽窃箇所その10

立宗七百年記念祭の前夜、堀日亨編・創価学会版『新編日蓮大聖人御書全集』が完成し、初版六千部が発行された
二年後に、四万部を再販したとき、定価二千円の『御書』を予約金千二百円で予約買取りをしておけば、あとで本部が二千円で買いもどすから、多く購入しておけばそれだけ儲けることになり「こんなうまい話はない」と、戸田は会員に宣伝して、『御書』の大量購入をすすめた。インフレを見越しての、戸田一流の資金プールの方法だった。》
(日隈威徳『戸田城聖 ―創価学会―』新人物往来社、1971年2月刊行、209ページ)

《日蓮正宗の立宗七百年記念法要が行われる前日、『新編日蓮大聖人御書全集』が完成し、初版六千部が発行された。
 戸田は初め、六百万円と見られたその出版費用を大石寺に出してもらおうと懇願したが断られ、出版費用は結局、会員からの一冊千二百円の前金でまかなわれた。
 同書に付けられた実際の定価は二千円だった。これには、いかにも商売人の戸田らしい、こんなからくりがあった。
 このとき戸田は、定価二千円の本を千二百円で予約買い取りしておけば、あとで増刷したとき、本部が二千円で買い戻す。だから多く買えばそれだけ儲かると、会員に大量の購入をすすめた。実際、同書は二年後、四万部増刷された。『御書』さえ、学会の資金プールの手立てに使う。》
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年5月18日号、122~123ページ)

佐野氏のコピー&ペーストは果たしてこれだけなのか……

11年前に出版された潮出版社の書籍からだけでなく、41年前に出版された絶版希少本からも、佐野氏はこれほどまでに大量にコピペしていたのだ。

ひょっとすると、佐野氏はほかの書籍からのコピペ原稿を書いていたのではないか――。
ガジェット通信特別取材班は、「週刊ポスト」の連載「化城の人」パクリ疑惑について、さらなる調査を続行することにした。

(2012年11月1日脱稿/連載第9回へ続く)

情報提供をお待ちしています。
佐野氏の盗用・剽窃疑惑について、新情報があればぜひご提供くださいませ。メールの宛先はsanofile110@gmail.comです。(ガジェット通信特別取材班)

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