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週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった

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今回は橘玲さんのブログ『Stairway to Heaven』からご寄稿いただきました。

週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった

出版の世界の片隅にいる者として、ノンフィクション作家・佐野眞一氏が『週刊朝日』に書いた「ハシシタ 奴の本性」と、その後の出版社の対応について思うことを述べておきたい。

いまから20年ちかく前のことだが、私はその頃小さな出版社に勤めていて、屠場労組の主催する糾弾の場に出たことがある。当時の糾弾というのは、十数社の新聞社・出版社の幹部や編集責任者が一堂に集められ、100人あまりの組合員の前で差別表現を謝罪するというものだった。

典型的な差別表現は「士農工商」「屠殺」「屠所に引かれる羊のように」で、こうした言葉を注釈なしに使った出版社は「差別に対する意識が足りない」として謝罪を迫られた。このとき会場を埋め尽くした組合員から、「お前は踏まれた者の痛みを知っているのか!」などと怒号を浴びるのが“糾弾”の由来だ(もっともこうした糾弾は70年代がもっとも激しく、私が参加したときはかなり形骸化していた)。

これらがなぜが差別表現になるのか理解できないひともいるだろうからすこし説明しておきたい。その時の屠場労組の説明は、次のようなものだった。
士農工商:江戸時代の身分制は“穢多非人”という被差別階層を前提に成立していたのだから、歴史学の研究ならともかく、現代の階級社会の比喩として使うべきではない。
屠殺:“屠る”というのは人間の生命のために動物の生命を犠牲にする聖なる行為で、「屠殺」のように、そこに“殺す”という否定的な単語を組み合わせるのは生き物を屠る聖なる職業に対する差別意識の現われだ。
屠所に引かれる羊のように:イザヤ書に出てくる言葉だというが、誰でも羊がかわいそうで屠人は残酷だと思うにちがいないのだから、差別的な歴史表現を安易に比喩として使ってはならない(こうして「ドナドナ」は歌えなくなった)。

こうした主張はその後、「言葉狩り」として批判されるようになるが、ここではそれについては論評しない。

糾弾という「儀式」の特徴は、出版社(と書き手)が無意識のうちに差別表現を使用して、それを指摘されて謝罪することだ。これはフロイト的な理屈でもあって、「無意識の差別意識を糾弾によって意識化することで、社会の矛盾や自らの差別意識とはじめて向き合うことができる」とされていた。

ところがメディア側は、このことを「うっかり差別表現を使うとヒドい目にあう」と学習し、「差別だと指摘されたら即座に謝罪し、絶版・回収する」のが常識になった。これが、メディア側の自主規制だ(これについては以前書いた)*1。

*1:「Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(6)」2011年5月23日『Stairway to Heaven』
http://www.tachibana-akira.com/2011/05/2416

私はこうした対応には批判的だが、謝罪するのも、絶版・回収するのも著者と出版社の自由ではある。だがこれは、著者も出版社もそれが差別表現だとは知らなかった、ということが前提になってはじめて成立する話だ。知らずに書いてしまって、指摘によって今はそれが間違っていたとわかったからこそ謝罪するのだ。

ところが佐野眞一氏の「ハシシタ 奴の本性」は、こうした過去の差別問題とはまったくちがう。それは佐野氏が、絶対的な確信のもとに書いているからだ。

佐野氏は、「一番問題にしなければならないのは、敵対者を絶対に認めないこの男の非寛容な人格であり、その厄介な性格の根にある橋下の本性である。そのためには、橋下徹の両親や、橋下家のルーツについて、できるだけ詳しく調べあげなければならない」と書く。

もちろん佐野氏は、この記事によってどのような事態が起きるかも正確に予想していた。

 オレの身元調査までするのか。橋下はそう言って、自分に刃向かう者と見るや生来の攻撃的な本性をむき出しにするかもしれない。そして、いつもの通りツイッターで口汚い言葉を連発しながら、聞き分けのない幼児のようにわめき散らすかもしれない。

 だが、平成の坂本龍馬を気取って“維新八策”なるマニュフェストを掲げ、この国の将来の舵取りをしようとする男に、それくらい調べられる覚悟がなければ、そもそも総理を目指そうとすること自体笑止千万である。

 それがイヤなら、とっとと元のタレント弁護士に戻ることである。

当然のことながら、『週刊朝日』編集部もこうした認識は共有していたはずだ。

『週刊朝日』編集部は、表紙に橋下市長の顔写真を大きく掲載し、大々的に新聞広告まで打って、佐野氏の記事を世に問うた。そして予想していたとおり、橋下市長から激しい反発と批判を浴びた。だったらなぜ、ここで謝罪して連載を中止するのか?

私たちはごくふつうに、初対面のひとに向かって、「ご出身はどちらですか?」とか、「お父さんはなにをされていたんですか?」と聞く。出身や血筋が本人の性格や人生に大きく影響すると、当然のように考えているからだ。

「ハシシタ 奴の本性」を読めばわかるように、佐野氏は、「血(ルーツ)」こそがひとの生き様を支配する、という人間観を持っている。佐野氏の作品が多くの読者を獲得したのは、こうした人間観が広く受け入れられているからでもある。「原発とプロ野球の父」正力松太郎の実像に迫った『巨怪伝』にしても、ダイエーの創業者・中内功の栄光と挫折を描いた『カリスマ』にしても、佐野氏の視点は常に一貫している。違うのは、対象との距離だけだ(『カリスマ』が傑作たりえたのは、佐野氏が中内功という人物に魅了されていたからだ)。

私は「DNAを暴く」という考え方には与しないが、「日本国の首相の座を目指す公人は、父母や祖父母の代まで遡ってすべてのルーツを国民に開示すべきだ」というのが、ひとつの考え方(思想信条)であるとは思う。過去を隠していては首相になどなれない。実の父親がヤクザだったことや自殺したことなど、不幸なルーツを国民に率直に打ち明けたうえで、新しい日本のリーダーとして名乗りを上げるべきだ……。

もちろん、父親が被差別部落出身者で、その「血」を引き継いでいるから「非寛容な人格」になった、などという主張が許されるはずはない。橋下氏が批判するように、連載第1回を読むかぎりでは、そのように取られかねない記述が随所にあることも事実だ。

しかしその一方で、優性思想のような「血の呪い」がはっきりと述べられているわけでもない。橋下氏の実父の縁戚にあたる人物の証言はあるが、それがどのように「ハシシタの本性」につながっていくのかは、第1回を読んだだけではわからないのだ。

私は一人の表現者の端くれとして、作品は完結してから評価されるべきものだと信じている。そしてこうした信念は、出版社(編集者)と共有されるべきだと思っている。

今回の『週刊朝日』の対応で私がいちばん不満なのは、著者である佐野氏が事態をどのように考えているのか、あるいは、謝罪や連載の中止に同意しているのか、いっさいの説明がないことだ(報道によれば、佐野氏は「週刊朝日に『取材には応じないように』といわれている」らしい)。

佐野眞一氏は、大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞を受賞し、日本のノンフィクション界の頂点に立つ。ジャーナリストとしての経歴を考えれば、被差別部落の出自と個人批判を重ねればどのような事態が引き起こされるのか熟知していたことは間違いない。その佐野氏が、激しい批判を覚悟のうえで、「確信犯」として、自らの名声を賭けてこの連載を始めた。『週刊朝日』編集部は、佐野氏とその覚悟を分かち合っていたのではなかったのか?

誤解のないようにいっておくが、私は佐野氏の「橋下批判」には同意しない。しかしそれでも、次のことだけはいっておきたい。

佐野氏とともに批判に耐える覚悟がないのなら、『週刊朝日』編集部はそもそもこの連載を始めるべきではなかった。

覚悟を決めて記事を掲載したのなら、中途半端な謝罪などせず、批判に耐えて、連載を最後まで続けるべきだ。そして連載が終わり、「作品」として完結したときに、そこから生じるすべての責任を引き受けるべきだ。

責任を引き受ける気も、著者を守る覚悟もないのなら、出版などやるべきではない。出版と表現の自由というのはそういうことだと、私は思っている。

執筆: この記事は橘玲さんのブログ『Stairway to Heaven』からご寄稿いただきました。

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