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ライバルを出し抜くには、他人がやらないことを「あえて」やったほうがいい | 任天堂信者・漫画家 ピョコタンさん

ライバルを出し抜くには、他人がやらないことを「あえて」やったほうがいい | 任天堂信者・漫画家 ピョコタンさん さまざまなシーンで活躍しているビジネスパーソンや著名人に、ファミコンにまつわる思い出から今につながる仕事の哲学や人生観についてうかがっていく本連載「思い出のファミコン – The Human Side –」。

今回ご登場いただくのは漫画家のピョコタンさん。漫画に限らずニコニコ生放送やYouTubeチャンネルを通じてのファンも多く、自ら「任天堂信者」を標榜し、同社の株主総会や新製品発売日のパフォーマンス等でネットメディアを中心に話題を集めること多数。傍から見れば奇想天外とも言えるその行動原理について、ファミコン遍歴と築き上げたキャリアから紐解いた―― ピョコタンさん プロフィール

1977年生まれ。東京都出身、千葉県市川市育ち。高校を卒業した1996年に『ボンバーマン4コマまんが王国3』で漫画家デビュー。おもな作品に『ピョコタンのマンガレポート』「アホ汁」シリーズ、『西日暮里ブルース』『ぼくは任天堂信者』。Twitter:@pyocotan

きっかけは「借りパク事件」

―― 「任天堂信者」のピョコタンさんですが、やはり所有していたゲームも任天堂の作品が多かったのですか?

僕がファミコン本体を買ったのが小学2年生、『スーパーマリオブラザーズ』が発売された1985年のことでした。スーパーマリオと一緒に買ったカセットが『忍者じゃじゃ丸くん』です。じゃじゃ丸くんはカエルに乗った忍者のパッケージがかっこよくて、まあジャケ買いですね。

ただ、任天堂のゲームばかり買っていたのかと言うとむしろそうではなかったです。そのあとも『スーパーアラビアン』だとか『パックランド』『ペンギンくんウォーズ』とか。そうやって友だちから借りたカセットも含め、いろいろなゲームで遊んでみてわかったのが、「やっぱり任天堂のゲームってクソゲーがなくて一定水準を超えたおもしろいゲームばかり出してるな」ということ。身銭を切りながら、体感的にわかってきたんです。

―― ファミコンにまつわるエピソードもいろいろお持ちかと思いますが?

やっぱり当時はファミコンカセットの借りパク(※他人から借りたままパクって自分のものにする行為)が横行していましたからね。誕生日に買ってもらった『マイティボンジャック』が借りパクされたのは特にショックでした。その経験から自分のカセットには、全部名前を書くようにしていました。

そんなこともあったので、親が対策として友だちを家のなかに入れないよう、玄関先で遊ばせるようになったんです(笑)。当時のホームビデオなんかも残っているんですけど、友だちがみんな玄関に座ってそこにテレビを置いてファミコンやっていました。

―― 漫画を描き始めたのもファミコンで遊び始めたころと重なるのでしょうか?

『スーパーアラビアン』や『ハイドライドスペシャル』とか、パッケージのイラストがやけにかっこいいと思えるカセットがたくさんありましたよね。ただ実際に自分で真似して描いていたのは『じゃじゃ丸くん』でした。10歳の頃には確実に描けるようになってましたね。漫画は少年ジャンプよりもコロコロコミック派でした。『つるピカハゲ丸』みたいなギャグ漫画からとくに影響を受けたと思います。小学生の時に書いた「将来の夢」

ゲーム会社に就職するか、もしくは漫画家か・・・

―― もうその頃から、将来は漫画家になりたいと意識していたのですか?

中学生くらいからですね、漫画を描くかゲームを作るか、という進路をぼんやり意識していました。ちょうどその頃、PCエンジンで『トイレキッズ』っていう、自機がオマルで敵機が便器や排泄物といった、正にクソゲーなシューティングゲームでよく遊んでいたのですが、自分もそんなぶっ飛んだ作品を作ってみたい、と考えていました。

僕の通っていた高校は、クラスの9割は大学を目指す進学校だったのですが、僕は入学した時から勉強はあきらめモードで、コロコロコミックを中心にハガキ職人として投稿を重ねていました。高3になって進路を決めるときは、「どうすればゲームを作る人に一番近づけるんだろう?」ということを考え、ゲーム系専門学校へ20校くらい体験入学に行きました。そのなかで選んだのが、老舗ゲームメーカーのカルチャーブレーンがかつて運営していたゲームスクールでした。

―― その後、漫画家としてデビューすることになるわけですが。

そこのスクールは、カルチャーブレーン社のゲーム開発現場のすぐとなりに、学生の教室があるような環境でした。「ちゃんとした授業カリキュラムも設備もないし、学校っていえないんじゃない……ていうかもう会社の試用期間に入ってるのでは?」と思っていたんですが、カルチャーブレーンの『スーパーチャイニーズ』シリーズや『飛龍の拳』シリーズが大好きでしたし、ここならすぐにゲームが作れるかな、と目論んでいたんです。

ところが実際は、開発現場のすぐとなりだっただけに、ゲーム業界の現実を目の前で突きつけられることになったんです。僕が授業を受けているとなりで徹夜組の人が寝袋で寝ていたり、画面に向き合いながらぐったりしている人がいたり……僕たち学生はデバッグなんかもまかされるのですが、その単調で自由のない業務に、「ああ、ゲームを仕事にするのはしんどいな」と打ちのめされました。

そこで改めて、「一人で全部できるし、やっぱり漫画かな」と思いはじめ、ゲームスクールの方はフェードアウト(笑)、漫画のほうに集中して再び投稿マニアとして、コロコロコミックへの投稿を頻繁に続けました。でもそれが功を奏したのか、投稿ページの担当編集者の目についたようで、「4コマ漫画を描いてみない?」って声をかけていただいて、ゲームのコミカライズ作品で連載を持つことになったんです。

でもこれはラッキーで、今考えるとなかなかありえないシチュエーションだったというか、まあハガキ職人がいきなり連載ですから、これはありがたかったですね。

ゲームで学んだ”勝ち抜く”ための術

―― 「任天堂信者」としては、今でも現役でファミコンを遊ばれるのでしょうか?

いえ、もうファミコンはやらずに、任天堂が出してくる新型ハード機や新作をずっと追いかけてやり続けています。僕のポリシーとして、自分の人生に合わせながら、そのとき旬のゲームをずっとやり続けていきたいっていうこだわりがあるんです。

―― ピョコタンさんがゲームから得た人生観や、仕事に生かせる真理みたいなものはありますか?

たとえば『桃鉄』シリーズみたいなボードゲームのおかげで、相手が何をしてくるのか察しながら次の行動を考える習慣は身に付いたと思います。『桃鉄』を例にすれば、相手はみんな目的地に向かうために必ずここを通るだろうから、うんこカードを置いて閉じ込めちゃえば絶対イヤだよな……みたいなことですね。

僕はボードゲームで嫌がらせをするために相手の嫌がることを考える癖が身に付いたわけですが、逆転の発想をすれば、話し相手の気持ちを尊重するときには優しい振る舞いもできるわけです。どんな仕事でも、相手がいる場合はまず相手の気持ちを考えるっていう意識はすごく重要ですからね。

あとは『ボンバーマン』シリーズみたいな多人数の対戦アクションゲームでは、勝ち抜くための術をひたすら考える、そうした癖がゲームを通して自然に身に付いたことは、大人になって改めて良かったなと思っています。

勝ち抜くため、言い換えればライバルを出し抜くには、他人がやらないことを「あえて」やったほうがいいっていうのはずっと感じています。たとえば漫画の世界でも、漫画雑誌の賞レースに応募して、受賞を夢見ながら漫画家のアシスタントやって……とかだと、正直きついじゃないですか、いわゆる正統派ルートは。

僕の場合もおそらく、設備もプログラムも充実してるような“ちゃんとした”ゲームの専門学校に行ってたら、おそらく今、漫画を描いている自分にはなっていなかったと思います。ちょっとイレギュラーな道を探っていく……ライバルが少ない方へ少ない方へ、競争相手が少ない方に立ち位置を求めて、じゃあそこでどうアピールしていくかを考える。そんな考え方もきっと、ゲームから学んだことないじゃないですかね。

 

取材・文:深田洋介

1975年生まれ、編集者。2003年に開設した投稿型サイト『思い出のファミコン』は、1600本を超える思い出コラムが寄せられる。2012年には同サイトを元にした書籍『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を刊行。

http://famicom.memorial/

撮影:鈴木健介

 

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