西原理恵子×高須克弥著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)絶版・回収事件を考える(にんげん出版代表 小林健治)
今回は『連載差別表現 | 小林健治』からご寄稿いただきました。
西原理恵子×高須克弥著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)絶版・回収事件を考える(にんげん出版代表 小林健治)
『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』絶版・回収
5月25日、主要紙に全五段カラー広告を打ち、鳴り物入りで売り出された、西原理恵子氏と高須クリニック医院長・克弥氏の共著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)が、発売5日で突然絶版になった。
すでに書店に配布された本は、版元・小学館の要請によって取次店を通じて回収されているという。
いったい何があったのか。原本を読むことができたので、思うところを述べてみたい。
絶版・回収に至ったことについて、版元・小学館は公式には何も語っていないが、本書11ページにある以下の文章であることが明らかになった。
ばあちゃんの口癖は「お前は、そこらへんの漁師や百姓とは違う」。
幼い僕に、昔の栄耀栄華をよく語った。
こう言ってはなんだけれど、サイバラには栄耀栄華はないからね。
さしずめ、僕とサイバラは、白系ロシア人と農奴みたいなものか。昔は「士・農・工・商・穢多(えた):非人(ひにん)」という身分制度があって「お前のひいおじいさんは、とても情け深い人で、“穢多も同じ人間じゃ。差別してはいかん”と言うて、穢多の子どもたちに餅を投げてやった。子どもたちがそれを拾って食べると“穢多の子は可愛いのう”と目を細めていた」と、ばあちゃんは言う。この話をすると、サイバラは「なんてひどいことするんだ。ものすごい差別じゃん!」って怒るんだけど。
僕が「学校で権十にいじめられた」って泣きついた時も、ばあちゃんは言った。
「権十のジジイはうちの小作で、年貢を納めるときは裸足で来たんじゃ。草履を履いて、ここまで入ってこられるような身分じゃない」
編集部の注釈は必要
たぶん、小学館の役員は、この箇所のとくに「昔は……」以下を部落差別につながる差別表現と判断し、高須氏に書き直しを依頼したところ断られ、止むなく絶版にし、回収措置をとったということのようだ(高須氏のツイート)。
また、本書には「うちの母親は産婦人科もやっていたからしょっちゅう妊娠してはおろしにくるパンパンがいっぱい来ていた」(15頁)という表現もある。
「パンパン」という言葉には、敗戦後やむを得ず進駐軍(アメリカ軍)相手に春をひさがざるをえなかった女性を貶める侮蔑語であり、何らかの注釈を、編集部で付した方が良いだろう。
結論から言えば、それと同じく10頁の、「昔は……」以後の文章も、著者の高須氏に書き換えを要請するのではなく、編集者の責任において、キチンとした注釈をつけて、原文のまま出版すべきだった。
高須氏を支援し、版元・小学館を批判する多くの人の意見を読んでいて、部落差別と差別表現の問題について、かなり誤解と偏見が見られるので、ここで改めて正しておきたい。
版元・小学館を批判する意見にある誤解と偏見
【1】「穢多(えた)」「非人(ひにん)」という言葉を使ったから?
差別語である「穢多(えた)」「非人(ひにん)」という言葉を使用しているから問題にされた、という意見について。拙著『差別語・不快語』(にんげん出版、2011年)、あるいは『部落解放同盟『糾弾』史』(ちくま新書、2015年)の中で、何度も強調しているように、部落解放運動が抗議してきたのは、差別表現であって、差別語の有無ではない。
ただ、差別語を使った差別表現が圧倒的に多かったために、「差別語の使用=差別表現」と曲解し、「禁句・言い換え集」を作り、“言葉狩り”を自主的に行ってきたのが、マスコミ業界だということ。
しかし、差別語を禁句にし抹消することは、逆に差別を隠すことに手を貸し、差別をなくすことには役立たない。
今一度、差別表現とは何かをかんたんに整理しておこう。
【差別表現とは】
○差別表現とは、文脈のなかに差別性(侮辱の意思)が存在している表現で、差別語が使用されているか否か、内容が事実か否かとは直接関係しない。○差別表現を問うとは、表現の差別性を問うているのであって、表現主体の主観的な意図を問題にしているのではない。表現の客観性、その表現が社会的文脈の中でどう受けとられるかということ、つまり、表現の持つ社会的性格について問題にしているのである。
『一、吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す』(全国水平社創立大会決議 第一項 1922年)
(1)差別語を使用した差別表現
「芸能界は(魑魅魍魎)な特殊部落だ」(玉置宏氏、『3時のあなた』1973年)
・『特殊部落』という言葉は、明治30年代、政府によって作り出された官製の差別語。文例は、芸能界をひとことで否定的に描くため、差別語の「特殊部落」を隠喩的(負のメタファー)に使って表現した、極めて悪質な差別表現。
(2)差別語を使用していない差別表現
「芸能界は被差別部落だ」
・上の例文(1)を『特殊部落』という差別語を使ったために問題にされたととらえてしまうと、特殊部落を差別語ではない被差別部落と、マニュアル的に言い換えればよいように思われがち。しかし、(1)と(2)の表現の差別性になんら違いはない。同様に、「キチガイに刃物」→「統合失調症に刃物」「あいつはめくらと同じだ」→「あいつは何も見えていない視覚障害者と同じだ」と言い換えても、障害者に対する差別表現であることに変わりはない。
(3)差別語を使用しているが差別表現ではない表現
「わしら部落の人間は<エッタ>といわれて差別されてきた…。」(部落の古老の語り)
・要は、その言葉が使われる必然性及び、社会的意義が、文脈なり作品にあるかどうか。
(4)差別表現ではないが差別語の使用の仕方が誤っている表現
「特殊部落の子どもと他の子どもとの間にある差別感をどう取り除くか」
・文脈は差別表現ではないが、ここで差別語の「特殊部落」を使う合理的理由はない。「同和地区出身」あるいは「被差別部落出身」と表記すべき。
【2】高須氏に差別する意図はないのだから問題にすべきでないという意見
版元・小学館を批判する多くの意見にみられる誤解と偏見の二つめ。
本書では、「昔は……」以下は、ひいおじいさんの話をおばあさんから聞かされていた高須氏が、伝聞形式で書いている。そして、その話に、「サイバラは『なんてひどいことするんだ。ものすごい差別じゃん!』って怒るんだけど。」と書き加えている。
高知県生まれで、たぶん部落差別を身近に見知っている西原さんの直感的な批判は、その通りだが、問うべきは、“ひいおじいさん”であり、それを差別とも思わず高須氏に語り聞かせる“おばあさん”であり、語られた時代の社会的差別意識である。
高須氏が、この「昔は……」以下のエピソードについてどう思っているのかであるが、直接的には何も語っていない。
ただ、サイバラさんの言葉に仮託して、自分の考えに問題があることを、間接的には表明している。
しかし、差別表現か否かにおいて重要なことは、話者・執筆者の主観的意図とは関係なく、その文脈が、社会的にどう受けとられ、どう評価されるかである。つまり、高須氏に差別的意図がないから云々の問題ではない。
拙著『差別語・不快語』で、私はつぎのようにのべている。
〈一般に、差別表現か否かを、話者の主観的な意図にもとづいて、つまり悪意をもって発言したかどうかに基準をおく傾向がありますが、重要なことは、表現主体(話者)の差別的意図の有無の問題ではなく、表現内容の差別性についての客観的評価(社会的文脈)で判断すべき問題ということです。〉
○何が差別かを誰が決めるのか
では、何が差別かを、だれが決めるのか。同書で、私はつぎのように述べている。
〈何が差別か、差別表現かを、だれが何を基準に判断するのでしょうか。 “足を踏まれた痛み”を知る被差別マイノリティが、差別だといえば差別表現になるのでしょうか。たしかに被差別マイノリティは、ほかのだれよりも差別について、鋭敏な感性をもつ当事者です。しかし、なにが差別・差別表現かは、すぐれて客観的なもので、時代とともに変化する社会意識(社会的価値観)のなかに判断基準があるといえるでしょう。つまり、被差別者の主観的告発は、社会的に受け入れられることによってはじめて、客観性(正当性)をもつわけです。なにが差別か、差別表現かは、被差別者の主観のなかにではなく、客観的な社会的文脈のなかに存在します。〉
さらに、ここで詳述はしないが、差別表現は、話され、書かれた内容が事実であるか否かとも直接関係しない。
ここまでのことをまとめると、差別表現とは、ある一文、ある発言の文脈の中に、差別性(侮辱の意志)が存在している表現であり、(1)差別語が使用されているか否か (2)発話者・執筆者の主観的意図 (3)表現内容が事実か否か、とは直接関係しないということだ。
“ひいおじいさん”“ばあちゃん”の差別性への問題意識
以上の観点から、再度、冒頭の「昔は……」を考えてみたい。
まず、「昔は『士・農・工・商・穢多(えた):非人(ひにん)』という身分制度があって……」は、“穢多”とか“非人”という差別語が使用されているが、歴史的事実に沿って書かれているだけで、別になんの問題もない。ただ、現在の歴史学では「士・農・工・商」という身分制度は否定されており「武士・平人(農民と町人)・賤民」と理解されている。加えて、1871年(明治4年)の「賤民解放令」によって身分制度は公式に廃止されている。
したがって、“ひいおじいさん”の時代には、すでに身分制度はなかったと思われる。
問題とされたのは、たぶん、その後に“ばあちゃん”の言葉として引用されている“ひいおじいさん”や“ばあちゃん”の被差別部落民に対する意識の中に、高須氏が差別性を感取しているか否かだが、残念ながら高須氏には、その問題意識すらなく、肯定的に受け止めていると思わざるを得ない。
しかし、間髪入れず、サイバラさんの「なんてひどいことするんだ。ものすごい差別じゃん!」って怒るんだけど。」を入れることによって、高須氏は、「僕とサイバラは、白系ロシア人と農奴みたいなものか」という、育った環境による社会意識の違いを鮮明にしている。
つまり、「昔は……」の以降のエピソードは、その違いを明らかにすること、開明的で同情融和的な篤志家の“ひいじいちゃん”と“ばあちゃん”を尊敬していることのたとえとして語られている。
文脈自体が差別表現か
この「昔は……」以下の文脈に、同情融和的な差別意識があること、そして、高須氏がそれを肯定していることは確かだが、文脈自体が差別表現とは一概に言えない。
部落差別意識を肯定助長させる可能性と懸念は排除できないが、それは、本文を書き直すことによってではなく、出版する側の、編集の責任として、誤解と偏見を抱かせないように、「餅を投げ」たのは祭事の時であることなど、編集部注や解説などをつけて、出版することがベストだろう。
しかし、書き直しを拒否されて、絶版・回収という出版社の安直な処置は、稚拙かつ拙速と言わざるを得ない。
しかも、絶版・回収の経緯を明らかにしていないのは、出版社の社会的責任を放棄した重大な問題と指摘せざるを得ない。
全文を読み終えての感想だが、『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』は、滅茶苦茶面白い本だ。
「えたをかわいがるときは、かわいがっております」――差別意識の裏返し
かつて、同様の事件があった。(くわしくは『部落解放同盟「糾弾」史』42頁を参照)
※高知県須崎通信局長差別事件――1958年、朝日新聞の高知県須崎通信局長・清水桃一氏が、勤務評定問題を市役所で取材中、市職員に向かって、「おまえはえたの出かしらんが、えたがするようなことをするな」と発言した。解放同盟須崎支部が事実調査を行なうと、清水記者は事実を認めた。さらに同席していた同記者夫人は、「えたをかわいがるときは、かわいがっております」と発言。差別意識が血肉化しているとも言うべき、ひどい差別発言で、厳しい糾弾が行われたことは言うまでもない。
※月刊『太陽』差別問題――もうひとつは、1985年、月刊『太陽』(平凡社)に載った、「ある料亭の女将が語る わが人生 天にしたがいて」。材木商を営んでいた、女将の父親の人物描写をする中で、「家には、番頭や木挽職人…、それに女中…、二、三十人の使用人がおりましたでしょうか。そのなかには当時の言葉で申しますと新平民とよばれておりました人たちもございました。…」と続き、商売第一で合理主義の父親は、「そのようなことには頓着しなかったのではないかと存じております」という文章。しかし、「そのようなこと」の中身については、いっさい何もふれていない。
今回の小学館の文章にも通ずるところがある一文だが、その当時、こちらが指摘したのは、女将の父親が開明的で、商売第一の合理主義者だということを裏付ける材料のひとつとして、なぜ、“新平民”を雇用していたことをことさら取り上げる必要があるのか、という一点にあった。
“新平民”が置かれている社会的立場には何ら問題意識を持たず、現状を肯定したうえで、みずからの同情融和的意識に潜在している差別意識の裏返しである優越意識をこそ問う必要がある。
「掃き溜めに鶴」的心性は、鶴には向けられても、掃き溜めで呻吟している被差別民には思いは至らない。
執筆: この記事は『連載差別表現 | 小林健治』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2016年06月16日時点のものです。
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