【日曜版】新たに聞く~日本の新聞の歴史~【第2回 新聞あらわる!】
200年にわたって鎖国を行った江戸時代の間、他国とほぼ没交渉だった日本は、幕末になるまで国の外で起きていることをほとんど知る必要なく過ごしていました。わずかながら国内に伝えられたのは、長崎を訪れるオランダ商人がまとめた世界の動向を翻訳して幕府に報告したものだけだったそうです。
しかし、ペリーの黒船来航とともに情勢は一変しました。あわてた幕府は、諸外国との交渉のためにも性急に国際情勢を知ろうとしましたが、長い鎖国時代を経て開国した日本はまさに“浦島太郎”状態。そこで、外国船が持ち込んだ海外の新聞を翻訳させた“翻訳新聞”を読むことから情報収集を始めたのです。
この幕府による“翻訳新聞”に先立って、日本で最初に新聞が作られたのは、江戸時代末期の1861年(文久元年)の長崎でのこと。しかも、日本語ではなく英語で書かれた『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』という英字新聞でした。
外国人居留地で作られた英字新聞
開国とともに、各地の港に外国の船が着くようになると、港町には外国人居住者の数が増えていきます。彼らは、貿易のための情報を必要としており、母国で発行されていた新聞を日本においても発行しはじめたのです。日本の港の中でもいち早く1859年(安政6年)に開港した長崎には、世界各国の商人たちによる外国人居留地ができており、彼らは商品相場、市場動向、出入港する船の発着情報、そして国内外の政治・経済の情報を必要としていました。
このようなニーズに応えるため、長崎に住むイギリス人A.W.ハンサードは、イギリスから鉛製の活字を輸入して、『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』を発行しました。広告や各国公使の公報などを掲載し、水曜と土曜に発行する夕刊新聞だったそうです。
この後、横浜、兵庫においても、さまざまな英字新聞が発行されました。当初は貿易に関する情報がメインでしたが、そのうち日本の政治を論じたり、日本の歴史・文化を伝えたり、彼らが日本を知るにしたがって日本に関する内容も充実するようになりました。これらの英字新聞は、英語を学んだ幕臣や藩士たちにも読まれるようになり、尊皇攘夷論と開国論の間で揺れ動く当時の日本の藩士たちに少なからぬ影響を与えることもありました。
とはいえ、明治初期の居留外国人の数はわずか1000人ほど。部数はせいぜい100部や200部というものでした。しかし、少ない部数ながらも、切実に情報を必要としていた外国人たちに熱心に読まれていた新聞だったと考えられます。
海外のことを知るために作られた“翻訳新聞”
日本人が日本語で作った最初の新聞は、『Nagasaki Shipping…』から遅れること1年後、1862年(文久2年)に作られた『官板バタヒ(ビ)ヤ新聞』です。
『官板バタビヤ新聞』は、ジャワのバタビヤ(現・ジャカルタ)で発行されていた「ヤヴァッシェ・ニュース(Javasche Courant)」という、バタビヤ政庁の機関紙を原本として、オランダ国内および国際ニュース、幕府の学者がそのまま翻訳した“翻訳新聞”でした。しかも、日本にはまだ日本語の活字や新聞の印刷に適した紙がない時代。二つ折りの半紙に手書き、のちに木版で印刷したもの数枚を綴じたパンフレットだったようです。『官板バタビヤ新聞』は23号まで発行され、その後は『官板海外新聞』と名を改めています。
ほかにも、船で漂流の末にアメリカ船に助けられ、アメリカで教育を受けて帰国した、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)による『海外新聞』、宣教師ベイリーによる『万国新聞紙』、J.R.ブラックによる『日新新事紙』など、海外情報新聞が発行されました。とくに『日新新事紙』は、日本政府の機関紙として信用も厚く、内容・体裁ともにその後の日本の新聞の規範とされるものになりました。
新聞はカルチャーショックだった
『新聞』は、開国後の日本人が受けた大きなカルチャーショックのひとつでした。
ヨーロッパでは、1609年にドイツで世界初の定期刊行新聞『アブイソ』と『レラチオン』が発行されて以来、各地で議会の議事や決議を報道する新聞が作られました。また、イギリスのコーヒーハウスなどでは新聞を片手に政治や社会を議論する文化が生まれ、少なからず政治に影響を与えるまでの力を持つまでになっていました。日本ではまだまだ「一般庶民が政治の話をするなどご法度」であり、ジャーナリズムの萌芽すらない時代に、欧米では新聞が世論をリードし、一般市民が新聞を読んで政治や経済の動向を論じ合うことなど、特別でもなんでもない「常識」だったのです。このあまりにも大きな違いに、当時の日本の知識人は大きな衝撃を受けています。
さらに、印刷の問題もありました。ヨーロッパでは、1445年頃にはすでにドイツのグーテンベルグが活版印刷術を発明し、活字を使った印刷が長い歴史を刻んでおり、1846年にはアメリカのホーが一時間に8000枚を印刷できる輪転機を制作。一方の日本とはいえば、木に文字や絵を彫り付けたものを版画する、木版印刷しかありませんでした。さらに、新聞を刷るのに適した大判の紙を大量に作る技術もありません。タイプライターしかない国に、コピー機がやってきた……というのは言い過ぎかもしれませんが、印刷技術において圧倒的な技術格差があったことは確かです。
しかし、新聞という新しいメディアは、明治という新しい時代と共に芽を出して育っていくことになります。次回は、日本人が日本人のために作る日本語の新聞が生まれた頃のことを見ていきたいと思います。
【参考文献】
興津要『新聞雑誌発生事情:角川選書、1983年
春原昭彦『四訂版 日本新聞通史』新泉社、2003年
秋山勇造『明治のジャーナリズム精神』五月書房、2002年
梶谷素久『新・ヨーロッパ新聞史 : ヨーロッパ社会と情報』ブレーン出版、1991年
■新たに聞く~日本の新聞の歴史~
東京産業新聞社創立記念連載『新たに聞く~日本の新聞の歴史~』【序章】
新たに聞く~日本の新聞の歴史~【第1回 かわら版と飛脚】
京都在住の編集・ライター。ガジェット通信では、GoogleとSNS、新製品などを担当していましたが、今は「書店・ブックカフェが選ぶ一冊」京都編を取材執筆中。
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