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「困難な成熟」予告編(内田樹)

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今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

「困難な成熟」予告編(内田樹)

夜間飛行から『困難な成熟』という人生相談本が出る。
Amazonの広告に一部が出ていたけれど、せっかくだから、その第一問の問いと答えを全部公開。こういう感じでの説教が延々と続くのである。『説教本」が好き、という人にとってはこたえられない噛み心地。

「責任を取る」とはどういうことでしょうか。ニュースを眺めていると、テレビでもネットでも、不祥事を起こした企業や個人に対する「責任を取れ」という言葉が溢れています。しかし、人の死にかかわることや、原発事故など、個人のレベルをはるかに超えた問題について、人はどう責任を取ればいいのでしょうか。

答えはシンプル

「責任を取る」とはどういうことか。これは僕にとってはストライクゾーンど真ん中の質問です。というのも、「責任論」というのは、僕の師匠であるところのエマニュエル・レヴィナス先生の哲学の最大の主題であったからであります。ということはつまり、僕はレヴィナス先生に「弟子入り」宣言をなした1987年から四半世紀にわたり「責任」について考え続けてきたということになります。
ですから、問いに対する僕の答えはシンプルです。でも、その理由を語るためにはいささか長い紙数が必要になります。
問いはこうでした。「責任を取るということは可能でしょうか?」

答え、「不可能です」

以上。おしまい。

シンプルですよね。でも、どうして責任を取るということが不可能なのか、その理路を語るためには、ずいぶん長いお話に付き合ってもらわなければなりません。そのご用意はよろしいかな。トイレに行きたい人はいまのうちに、コーヒーなんか飲みながらの方がいいなと思う人はいまのうちにお支度をどうぞ。
さて、用意はよろしいですか。では、話を始めます。

「ごめん」で済む話はない

人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、それを「復元する」ということは原理的に不可能です。
仮にすばらしく医学が発達していて、多少の怪我なら死者でも蘇生させることができる世界があったとします。そこで、誰かがあなたを殺しました。それもけっこうえげつないやり方で。斧で首を切り落とすとか、チェーンソーで胴体まっぷたつとか。でも、すぐに病院に運び込んだら、失血死した死者を医師たちがさくさくと縫い合わせて、傷跡をきれいにして、どんと心臓に電気ショックを送ったら、あなたは無事に蘇生しました。病院に運んだりする手間はぜんぶ殺人者が整えてくれました。もちろん、医療に要した費用も彼が払いました。
さて、この場合、「いったん殺したけれど、きれいに元通りにしたから、これでチャラね」と殺人者が言ったとして、あなたはそれを許せますか?
もし、責任を取るというのが、「損なわれたものを原状に復す」ということを意味するなら、この殺人者はたしかに責任を取ったことになる。
でも、「冗談じゃない」と皆さんは思うでしょう?
斧で首を切られて殺されたときの不快感と絶望感は、傷跡が生理学的にどれほどきれいに縫い合わされたからと言って、それで消えるものじゃない。その経験は人間の深いところにある、何かピュアで無垢なものを取り返しのつかないしかたで壊してしまった。そこで失われたものはどんな手立てを尽くしてももう復元できません。
別にそこまで極端な例を挙げなくても、ふだんの生活でも、復元というのは不可能だということはわかりますね。
あなたが配偶者とか恋人に向かって「あなたのその性根の卑しいところが私は我慢できないの」とか「おまえさ、飯食うときに育ちの悪さが出っからよ、人前でいっしょに飯食うのやなんだよ、オレ」とか、そういうめちゃくちゃひどいことを言ったとします。でも、言ったあとに「これはあまりにひどいことを申し上げた」と深く反省して、「さっきのなしね。ごめんね。つい、心にもないことを言ってしまって…」と言い訳しても、もう遅いですよね。もう、おしまいです。復元不能。
世の中には、「ごめん」で済む話もあれば、「ごめん」で済まない話もある。そして、たいていの話は(満員電車の中で足を踏んじゃったとかいう、ほんとうにささいな事例以外は)「ごめんじゃ済まない」話なんです。足踏まれたくらいでさえ、「てめ、このやろう」と逆上して、刺しちゃう奴とかいるくらいですから。
「ごめんで済む話」はこの世にない、と。そう思っていいたほうが無難だと思います。

「眼には眼を、歯には歯を」という知恵

「ごめん」で済む話はない。どのような損害であれ、それを原状に復元して、「なかったこと」することはできない。そういうことです。ですから、「もう起きてしまったこと」について「責任を取る」ということはできません。原理的にできないのです。もう起きちゃったんだから。
だから、人が不始末を犯したときに、「おい、どうすんだよ。責任取れよ」と凄んでいる人がいますけれど、あれは「私がこうむった損害について、あなたが原状回復をなすならば、すべては『なかったこと』にしてあげよう」と言っているわけじゃないんです。「どうすんだよ、お前、こんなことしやがって。どうやって責任取るんだよ。でも、おまえがどのようなかたちで責任を取ったつもりになろうしても、オレは『それでは責任を取ったことにはならない』と言うからね」と言っているんです。
だからこそ、「眼には眼を、歯には歯を」という古代の法典が作られたのです。
これは「同罪刑法」と呼ばれるルールですが、別にこれは未開人が考え出した残虐な法律というわけではありません。逆です。
どこかで無限責任を停止させなければならないので、法律で「これ以上は責任を遡及してはならない」という限度を定めたのです。
人に眼を抉られた人間には、相手の眼を抉る権利があるということを言っているのではありません。逆です。「人に眼を抉られた人間は、相手の目を抉る以上の報復をなしてはならない」と、復讐の権利の行使を抑制しているのです。
実際には、眼を抉られた人の視力は、加害者の眼を抉ったことで回復するわけではありません。目は見えないままだし、痛みは消えないし、容貌だってずいぶん損なわれてしまった。でも、そういう損害は、相手の目を抉っても、何一つ回復されない。
だから、「責任を取る」とは「原状に回復すること」であるというルールに基づけば、「眼には眼を」というのは、全然「原状回復」じゃない。だから、責任を取ったことにはならないのです。
同罪刑法が教えているのは、どのようなことであれ、一度起きてしまったことを原状に復することはできないということです。人間は自分がひとたび犯した罪について、これを十分に償うということが決してできない。
同罪刑法は「責任を取ることの不可能性」を教えているのです。人間が人間に加えた傷は、どのような対抗的暴力を以ても、どのような賠償の財貨を以ても、癒やすことができない。「その傷跡からは永遠に血が流れ続ける」とレヴィナス先生は『困難な自由』に書いています。

「責任を取る」ことなど誰にもできない

まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならないという予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という言葉の生産的な使用法はありません。
さっき言ったように「責任取れよな」という言葉は、「お前には永遠に責任を取ることができない」という呪いの言葉です。「これこれの償いをなしたら許されるであろう」と言っているわけではありません。
学校でいじめにあった子どもが自殺したときに、親がいじめた子どもの両親と学校長と担任を相手取って、「1億円の損害賠償請求」をしたというような記事を読むことがあります。これだって「1億円払ったら許してやる」と言っているわけではありません。この賠償額の設定基準は「相手の一生を台無しにできるくらいの金額」ということです。つまり、賠償請求をすることを通じて、「私はおまえたちを絶対に許さない」という賠償の不可能性を告げているのです。
「責任を取れ」というセンテンスは「なぜなら、おまえには責任を取ることができないからだ」という口にされないセンテンスを常に伴っているのです。
ですから、「どうやって責任を取るのか」というのは問いのありようとして、すでに間違っているのです。
責任は取れないんですから。誰にも。
私たちが責任について思考できることは、ひとつだけです。
それは、どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけです。
勘違いしてもらっては困りますが、それは何についても「私は知らない。私は関与していない。私には責任がない」という言い訳を用意して、逃げ出すということではありません。まるで、逆です。
だって、その人は「私には責任がない」と言い張っているわけですからね。いかなる不祥事が起きようと、他人が傷つこうと、貴重な富が失われようと、システムが瓦解しようと、「私には責任がない」と言って逃げ出すんです。そんなことを金切り声で言い立てる人間ばかりだったら、世の中、どうなりますか。「私には責任がない」と言う権利を留保している人間だけで構成された社会を想像してください。そりゃすごいですよ。電気は消える。水道は止まる。電車は来ない。銀行のATMは動かない。電話は通じない。その他もろもろ。
きちんと機能している社会、安全で、そこそこ豊かで、みんながルールをだいたい守っている社会に住みながら、かつ「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら、やることはひとつしかありません。
それは「オレが責任を持つよ」という言葉を言うことです。

逆説的な結論

これも考えればすぐにわかりますが、構成員全員が「オレには責任ないからね」と言い募り、不祥事の責任を誰か他人に押しつけようと汲々としている社会と、構成員全員が自分の手の届く範囲のことについては、「あ、それはオレが責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会で、どちらが「誰かが責任を取らなければならないようなひどいこと」が起こる確率が高いか。
まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。
長くなりましたので、結論を申し上げます(もう申し上げましたけど、まとめ)。
責任というのは、誰にも取ることのできないものです。にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減してゆくからです。
どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。
「責任」は「鍋」とか「目覚まし時計」のように、実体的に存在するものではありません。でも、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。
そういう意味では、それは「摂理」とか「善」とか「美」とかいう概念と同じようにとらえがたいものです。「どんなものだか見たいから、ここに紐で括って持って来い」というようなご要望にお応えできる筋のものではありません。
それはあるいはヒッチコックが「マクガフィン」と呼んだものと似ているのかも知れません。
マクガフィンというのは、スパイ映画なんかで、敵味方が入り乱れて奪い合う「マイクロフィルム」とか「秘密の地図」の類です。それが何であるかはどうでもよろしい。とにかく、それをめぐってすべての登場人物の欲望が編制されている。誰一人、その呪縛から逃れることができない。でも、実体が何だかわからない。そして、なんだからわからなくても、サスペンスの興趣は少しも減殺されない。
マクガフィンには効果だけがあって実体がありません。これについてヒッチコックはこんな小咄を紹介しています。

「その網棚の上にあるのはなんだい?」
「これかい、これはマクガフィンだよ」
「マクガフィンて、何だい?」
「アディロンダック山地でライオンを狩るための道具だよ」
「アディロンダックにライオンなんかいないぜ」
「ほら、マクガフィンは役に立っているだろ」

マクガフィンを「責任」に、「ライオン」を「われわれの社会を脅かすリスク」に置き換えて読んでみて下さい。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2015年08月23日時点のものです。

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