コージー派侵略SFの新展開にして、薄曇りの学園青春小説
教室が小刻みに揺れ、窓の外へ目をやると空を火球が横切っている。クラスメイトが「隕石だ」と言う。しかし、別な者がそれを否定する。あれは落ちる前に減速した。
飛来物の目撃からはじまり、平和な日常を一変させる侵略が語られる。この運びは侵略SFの古典『宇宙戦争』と同様だ。ウエルズ作品はおよそ1カ月間の出来事だったが、『シンドローム』は7日間で進行する。小説中で「7日間」と区切られると、反射的に旧約聖書の天地創造を連想するが、この作品の7日間はたんに高校生の生活感覚に沿っているのだろう。つまり学校へ通って休みを迎えるサイクルだ。そこに描かれているのは、SF(宇宙からの侵略)以上に、学園を舞台にした青春劇である。
主人公であり語り手でもある「ぼく」は、火球目撃の日の放課後、別なクラスの平岩勇に誘われて、墜落現場を見に行くことになる。本当は乗り気がしないのだが、平岩が一緒に行こうと言いはる。ぼくはSF映画マニアの倉石を自分の身代わりにしようと考えるが、その場に久保田葉子が居合わせたことで、状況が変わってしまう。久保田は「あたしも行く」と言った。その久保田を見る平岩の目が、あきらかに非精神的な状態を示している。良くも悪くもはっきりとした性格で、妙に正直なところのある平岩はそもそも精神的な人間ではなかったのだが、平岩が久保田に非精神的な期待と願望を向けているのが、ぼくにとっては好ましいこととは言えなかった。
読み進むとわかるのだが、平岩は別に悪い男ではない。通常ならば、こいつのほうが主役を張るタイプだ。むしろ「非精神的」などという理屈をこねまわすぼくのほうが、自意識過剰というかメンドクサイ。あまつさえ「久保田葉子は松本零士の描く女性キャラクターにちょっと似ている。(略)ぼくは松本零士のマンガが好きではないし、松本零士の描く女性キャラクターにも関心がないが、それでも平岩が久保田葉子と自転車の二人乗りをするのだと思うと、これは絶対にそのままにしてはならないという気持ちが強くなった」などと言う。まったくアホである。
このアホでぐだぐだな感じがこの小説の面白さでもあって、学園青春ものにつきものの甘酸っぱいトキメキがないし、侵略SFに期待される鮮やかなセンス・オヴ・ワンダーもない。恋をしても非常時でも、どよんと薄曇りのような日常がつづく。ときどき、ちょっと陽がさしたり、雷鳴が響くくらい。物語にはスカッとするところがなく、ふつうだと「やんなっちゃうね」と思うところだが、ぼくはあんがい平然と受けとめている。諦観というほど突き抜けていないし、シラけているというほど後ろむきでもない。その一方で、侵略は刻々と進み状況はだいぶヤバくなってくるのだが、ぼくはドラマチックに反応しないので、かえってリアリティがある。
かつてジョン・ウィンダムの作品について「コージー派の破滅・侵略SF」と評したのは山岸真だが、『シンドローム』もその系列に位置づけられそうだ。言うまでもなく、このコージーは「コージー・ミステリ」からの転用である。山岸さんは、次のように説明をしている(〈SFマガジン〉1999年2月号の特集「50年代SFの幻視者たち20+α」のり、ジョン・ウィンダムの紹介)。
『トリフィドの時代』も『海竜めざめる』も破滅は地球規模なのだが、ストーリーは主人公兼語り手とその仲間の状況を中心に進む。主人公絶体絶命のシーンもあるけれど、極限状況下の割に物語の展開はきわめて穏やか。(略)結末は楽観的とまではいかないにせよ、ほのかな希望と前向きな姿勢が(ひかえめに)漂っている。
『シンドローム』の結末に希望と前向きさを感じるかどうか、読むひとしだいだろう。ぼくはちょうどよい塩梅だと思った。
(牧眞司)
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