永遠性を獲得した人生において「死後の世界」を問い直す
第2回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。高度に発達した情報技術をアイデアに用い、人間の意識のありようにアプローチした力作だ。その展開は、グレッグ・イーガンに代表される現代SFのトレンドにつらなる。その一方で、我が身の問題としての死を主題化する姿勢は、小松左京に近い。柴田勝家自身はそういう言葉を使ってはいないが、これは「実存」に関わる小説だ。
作品の構成は複雑で、《贈与》《転写》《弑殺》《蓄積》の各パートが交互に語られていく。この四つの物語で登場人物が重なっているらしいのだが、ひとりの人間が別々の呼称を持っていたり、固有人名がはっきり示されていないパートもあって、判然としない。そもそも、それぞれのパートの時系列も途中までわからない。因果のつらなりを推測していくミステリ的な趣向もあるのだが、この語りかたは、目先の仕掛けではなくテーマと深く関わっているのだろう。つまり、単線で一方向へ流れる時間ではなく、神話的な時間、もしくは人が生きる時間である。
それは物語構成だけにとどまらず、作中のガジェットとして端的に示される。《贈与》パートは、語り手であるイリアス・ノヴァク教授がミクロネシア経済連合体の島へ到着するところからはじまる。〔主観時刻(タイムスケープ)によれば、今は二〇六九年の五月十三日であるという〕というのが、冒頭の文章だ。この叙述はちょっと奇異だ。ノヴァク教授の意識は晴明なので、客観時刻と違う主観時刻があるのはおかしい。この違和感は、先へといくとさらに拡大する。この主観時刻のなかでは、これから起きることがいままで起きたことと同じように感じられるのだ。教授は現地ツアーガイドのヒロヤに出迎えられるが、教授は彼をすでに見知った相手と認識する。
この主観時刻を成立させているのは、生体受像(ビオヴィズ)なるテクノロジーだ。これは人間の体内にあるDNA自体を演算装置として用いて、個人の感覚や行動を細大漏らさずデータ化する。刻々と蓄積される膨大なログを意味づけし、順序を与えて意味づけすることさえ可能だ。自然に暮らしていると人間は記憶のなかに無為な日々を詰めこみすぎてしまうが、その断片化した人生を整理して叙述すれば精神の安定が獲得できる。物語となった人生が主観時刻であり、それは劣化することもない。もう死を恐れる必要もない。
しかし、そんな世界にあって、「死後の世界」の存在を説く宗教が勃興する。統集派(モデカイト)と呼ばれる彼らの動向を追うのが、《転写》パートだ。こちらの主人公ヨハンナ・マルムクヴィストは、スウェーデンからミクロネシア経済連合体へ来た模倣子行動学者だ。模倣子(ミーム)とは、人間の行動様式を決定づける情報であり、人から人へと伝播する。生体受像はこの模倣子も扱える。かつてイエスやムハマドが大衆に伝えたような信仰を、演算的にコントロールすることも可能なのだ。
こうやって説明してしまうとまるで陰謀論のようだが、物語はそう単純に運ばない。ヨハンナは、死者を葬送する統集派の隊列にアクデントが起こり、棺から黒い髪の女の子が転げだすのを目撃する。その刹那、ヨハンナはその子が自分の娘だと直感する。彼女は学者という立場ではなく、どうにもならない過去を引きずったひとりの母として、世界に残った唯一の宗教と関わっていく。
この作品を読み進むなか、ぼくの気持ちを占めるようになったのは、物語化されて永遠性を獲得する人生ではなく、むしろそこからこぼれおちる間隙のほうだった。ひとの生にはつかのまの情景、それ自体に意味をもたない瞬間がいくつもある。いや、むしろそちらのほうが生の基層であって、そのうえに意識や行為がたまたま浮かんでいる。それは広い海のようだ。
この小説の舞台となる未来のミクロネシアは、網の目のごとくめぐらされた大環橋によって島々が結ばれ、一体となっている。交通がよくなったことで産業が発展し、文化や経済の偏りも減じた。ひとつの島にだけ棲息していた猿も橋を伝って、ほうぼうの島々へ進出している。人びとはわざわざ外洋へ出る必要がなくなり、手で操る船はすっかり廃れた。もはや船は儀礼的なものとして残るばかりだ。ヒロヤの祖父は航海士だったが、大環橋によってその役目と誇りを失い、海へ漕ぎだすことのないカヌーを黙々と作りつづける。老化によって意識も混濁し、過去と現在の区別もつかなくなっている。この作品のテーマに即していえば、彼の主観は断片化してしまったのだ。
しかし、人がいかなくなった海は依然そこにあるし、祖父の物語化されない生もつづいている。『ニルヤの島』は、人間の意識・感覚を含めて大量の情報が制御可能となった世界を前提とし、あらためて”死後の世界”を問いなおす。その彼方にあらわれるのが表題の「ニルヤの島」だ。はたして、その地点では広大な海(物語化されぬ生)が見渡せるだろうか? 柴田勝家はそこまで含めて、この作品を書いたのだろうか?
この小説のなかには、いくつものヒントが潜んでいると思う。民俗学のバックグラウンドを持つ作者だけに、意味や合理ですくいきれない領域—-それを”無意識”と呼んでもよいのだが、この言葉には誤解や安易な解釈がつきまとうのであまり使いたくない—-はじゅうぶん承知だろう。入り組んだ作品だけに、こんかいはストーリーや構成を把握するだけで精一杯だったが、次に読むときはそこまで踏みこんでいきたい。
(牧眞司)
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