中学3年生ヒロシの一年間〜津村記久子『エヴリシング・フロウズ』
相手が辟易していようとも間断なくしゃべりまくる中3男子の母親。「これ、ほぼ私のことですやん!」と、思わず作品中の関西弁もうつってしまうのは、津村記久子の最新作『エヴリシング・フロウズ』だ(次男が今年の春まで中3、三男が2年後に中3なので)。少女と呼ばれる時代を通り過ぎて久しいが、ほんのちょっと前まで主人公がティーンエイジャーであってもバリバリ感情移入していた気がするのに…。昨今では、小説内の親以上に彼らに対して厳しい目で見てしまうことも。
しかし、本書の主人公・ヒロシには不思議と広い心を持つことができた。受験生なのに、しゃにむに勉強して上のランクの高校へ行こうという気概もない。絵が得意で、周りの友だちも「美術系の道へ進め」と薦めてくれるのに煮え切らない。ヒロシが実在したら、あるいは自分の息子だったとしたら、私も発破をかけずにいられなかった気がする。しかし精神衛生上幸いなことに、ヒロシは小説の中の存在だし、息子として教育する必要もない。架空の世界の子どもには、好きなようにのんびり生きてもらいたいではないか(学校行事と部活とごくたまーに勉強でへろへろしている次男が、プロフィールの”将来の夢”の欄に「一日でいいから何もしないで寝ていたい」と書いていたことを知って、大いに心を動かされたせいもある)。
本書は、ヒロシの中学3年の一年間を描いた作品である。新学年になりクラス替えの表が張り出された掲示板の前で、ヒロシは初めてヤザワと言葉を交わす。教室に行ってみると、ヒロシが密かに想いを寄せるソフトボール部の野末といつもつるんでいる大土居、ヒロシ以上の画力を持っているため常に意識してしまう増田もいた。ヤザワが自分をほんとうに友だちだと思っているのかと悩んだり、まだ会話したことのない野末に話しかけようと決意したり、増田の絵に劣等感をかきたてられたりするヒロシ。「この気持ちわかる!」と共感する場面がひとつもない中学生以上の男女は、ほとんど存在しないだろう。
中学校というのは(小学校もだが)、考えれば考えるほど奇妙な空間だ。誕生日と住所(受験する子もいるが)で機械的に区切られた者たちが集まるところ。自分の意志とは関係なく与えられた場所ではあるが、私たちは人間関係を築き自分の居場所を見つけようとするのだ。それだけに、卒業間際に野末が口にした「せっかく仲良くなったのに、三年間とか期限付けられてその後ばらばらにされるとかさ」という言葉が心に染みる。それでも、そうやって出会いと別れを積み重ねていくことが、その先の人生を生きていく力になるのだと思う。
津村氏は、基本的にあまりテンションが高くなく、概ねのんびり構えた主人公(すなわちヒロシ的な)を書き続けてこられた印象がある。私自身も気が合うのは若い頃から老成しているような友だちばかりだったので、津村作品を読むのはことさらにしっくりくる読書体験だ。加えて、著者のエッセイもまた絶妙な味わいである(「おもしろい小説を書く作家のエッセイがおもしろいとは限らないが、おもしろいエッセイを書く作家の小説はほぼ例外なくおもしろい」という真理。新潮社PR誌『波』の「やりなおし世界文学」は、現在いちばん楽しみな雑誌連載です)。
(松井ゆかり)
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